奈良・満願。
- 談山神社:神仏霊場巡拝の道・第三十七番(奈良二十四番)札所。大化の改新でおなじみの藤原鎌足を祀っている神社。この神社がある多武峰(とうのみね)で、中大兄皇子と大化の改新の構想を語り合ったといわれている。それから談山(かたらいやま)と呼ばれるようになったのが、神社の名前の由来。
神社の始まりは、鎌足の死後、息子で僧になった定慧が唐より帰ってきたのち、鎌足の供養のためこの地に十三重塔を建立したのがはじまり。678年のことだった。その2年後の680年に講堂が建立し、妙楽寺と称するようになった。そう、ここは元々寺だったのだ。
その後、明治の廃仏毀釈で寺院を廃して神社になるケースは別に珍しくはないが、寺の建物を破壊することなくそのまま使っているのが珍しい。神社っぽい建物がほとんどないので独特の趣きである。
これだけでみたら、どっかの寺と見紛うほどである。十三重塔がより神社らしからぬ雰囲気をかもしだしているのだろう。
本殿は俺が行ったときは改装工事中であった。桧皮の吹き替え工事を行っているのだ。本尊は隣りの権殿に移転していて、今年の3月に本殿に遷座するという。
本来は、本殿と拝殿はこのように見えるのだ。Wikipediaより拝借。
鳥居と手水場。
末社・総社本殿。天神地祇と八百万神を祀る。元々は1668年に建てられた本殿で、現在の位置に移り、総社本殿になったのが1742年である。
んで、こっちが末社・総社拝殿。福禄寿が祀られとる。
閼伽井屋(あかいや)と呼ばれる井戸。定慧が法華経を唱えたところ、竜神がこの井戸から出たとの謂れもある。
神廟拝所。妙楽寺の頃は、ここは講堂だったのだ。
真ん中のでかい社は末社・比叡神社。大山咋神(おおやまぐいのかみ)を祀る。右隣が大山津見神を祀る末社・山神神社で、左隣が宇迦之御魂神を祀る稲荷神社。
右が神明神社。天照大神を祀る。左が杉山神社。久々能智神を祀る。木の神様だそうです。
龍神社。高い岩の上に建てられている。
権殿(ごんでん)。元々は970年に藤原伊尹(これただ)よって創建された常行三昧堂で、阿弥陀如来を祀っていたそうな。この建物で能や舞を競い合わせていたことから、芸能・芸術、魔除け・厄払いの神であるマダラ神を祀る。あ、そうそう。俺が行った時点では主祭紳がここに移されていたが、現在は本殿に戻っているぞ。
権殿から見た総社本殿(右)と総社拝殿(左)。
これがこの神社のシンボルともいえる十三重塔。3重、5重は数あれど、13重はこの神社にしかない。なんともやりすぎな感じが俺好み(笑)。ここは紅葉スポットでもあり、ググッたら紅葉をバックにした十三重塔の画像が多数上がっている。
本殿左隣の西宝庫。
本殿右隣の東宝庫。
東宝庫の隣にあったみすぼらしい(失礼)お社。オフィシャルサイトによると、春日神社とのこと。
摂社・東殿。1619年に建てられた本殿を1668年に移築した社で、元々はもとは妙法堂(江戸時代には本願堂)だった。鏡女王、定慧和尚、藤原不比等を祀り、「恋神社」の別名で縁結びの神社としても有名なんだと。
観音堂。如意輪観音を納める。
末社・三天稲荷神社。宇賀魂命、菅原道真公、市杵島姫命を祀る。
祓戸社。帰りに見つけたよ!祀られているのは瀬織津姫神・速秋津姫神・気吹戸主神・速佐須良姫神…うーん覚えられん。
と言うわけで、談山神社お参り完了。岡寺へ向かう。おととし、多武峰(とうのみね)〜明日香村間の道が開通したと言う。あれ?どっかで見た光景…あぁ、思い出した。西国三十三箇所始めたとき、岡寺へ行く際に間違えた道だ!そん時はなんか工事で通れなかったんだよ。いつの間にこんな道が出来ていたのか。
- 岡寺:西国三十三箇所・第七番。山号を含めた正式名称は「東光山真珠院龍蓋寺」。本尊は如意輪観音。
正確な時期は不明だが、1300年前に義淵(ぎえん)僧正が開基したと寺伝には記されている。義淵僧正は法相宗の祖であり、その門下には東大寺に深く関わった良弁や行基などたくさんの僧侶がいる。
龍蓋寺の名の由来は、画像の池に義淵僧正が悪さばかりする龍を封じ込めて蓋をしたことからそういわれている。右下にちょろっと出ているのがその蓋で、揺らしたら雨が降るという言い伝えがある。
仁王門。明日香村内の建造物で重要文化財に指定されているのはこれと、この寺にある書院だけだとオフィシャルサイト。
手水場。
三重塔。この寺では最も新しく、昭和61年に建てられた。それまで500年以上なかったと言う。
大師堂。
開山堂と鐘楼堂。
稲荷社。
奥の院・弥勒道。俺が入ったときには、白装束纏ったばあ様が拝んでいてビックリする。
- 壷阪寺(南法華寺):神仏霊場巡拝の道・第三十八番(奈良二十五番)札所ならびに、西国三十三箇所・第六番。山号を含めた正式名称は「壷坂山南法華寺」。本尊は十一面千手観音。
寺伝によると、大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行して、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んでまつったのが始まりといわれる。
それから貴族たちの手厚い庇護を受けて、平安時代には三十六堂、六十余坊もの大伽藍だったが、他の寺院同様に南北朝時代や戦国時代で多大なダメージを受ける。
今の伽藍になったのは、本多利久(豊臣秀吉の弟秀長の家来)が高取城主となり、本多氏とその後明治の廃藩置県まで続く藩主植村氏の庇護を受け復興していった。
ここは眼病の霊験が高く、人形浄瑠璃の「壺坂霊験記」の舞台にもなっている。近年では盲目の老人向けの介護施設なども運営している。
受付の隣にある講堂。
仁王門。建暦2年(1212)建立されたが、平成10年に台風で被害を受けて、平成15年に今の場所に移転/修復がなされた。平成15年(2003年)はこの寺が開かれて1300年になる年。それにあわせて、他にもいろんなお堂が建てられたり、伽藍の整備がなされたのじゃ。
多宝塔とその隣にある灌頂堂。灌頂堂は15世紀の頃までこの寺にあったと言う。で、開山1300年に合わせて(ry 建物のベースは、前述した本多家が寄進した因幡堂(いなばどう)で、それを移転・拡充したものだ。
手水場。
慈眼堂。ようするに、本堂の隣にあった阿弥陀堂を移転・解体修理のちに二階建てにしたと。これも開山1300(ry…ほかにもなんだかよくわからないレリーフや馬鹿でかい仏像とかあってな…とても撮る気になれなかった…なんだか、勝尾寺の時みたいな悪趣味さをだんだん感じてしまう…俺がジジィになったら薄まって味わい深くなるのだろうか。
三重塔。明応6年(1497)再建された。この寺では最も古い建物。
中興堂。常磐勝憲長老像が納められている。この方が盲老人介護施設などの福祉事業を立ち上げたのだ。
- 法起院:西国三十三箇所・番外札所。長谷寺の塔頭寺院であり、開山堂とも称する。徳道上人を本尊とする。この方が西国三十三箇所を最初に世に伝えたのだ。
後述する長谷寺を開山したりなど数々の業績を残すが、養老2年(718年)病に付して死の淵に閻魔大王に出会ったという。そこで西国三十三箇所巡拝の教えを得て、再び意識を取り戻したという伝説がある。
そのときに賜った三十三の宝印に従い、現在の三十三箇所の寺院を札所にして「ここの観音さんをぜーんぶ巡礼したら、閻魔さんが現世の罪免除してくれるわよーん。極楽にいけちゃうわよーん」と説いたが、俄かには信じてもらえず、時期尚早と判断し、宝印は一旦、中山寺に封印されることになる。270年後に花山法皇に発掘され、広められるまで。
この法起院は、晩年徳道上人が隠棲していた地に建てられている。松の木に登って法起菩薩と化して遷化したことからこの寺院が名づけられたと言う。
山門。ここが長谷寺の開山堂だどーとデカデカと表している。ちなみに開山堂と名乗るようになったのは、元禄8年(西暦1695年)になってから。長谷寺化主英岳僧正再建による。
弁才天堂。
庚申堂(こうしんどう)。青色金剛を祀る。
十三重石塔。これが徳道上人の墓である。そう、ここは徳道上人の御廟所(ごびょうじょ)でもある。
稲荷社
馬頭観音堂。
日も傾いてきた。急いで長谷寺へ向かおう。
- 長谷寺:神仏霊場巡拝の道・第三十五番(奈良二十二番)札所ならびに、西国三十三箇所・第八番。山号ふくめた正式名称は「豊山(ぶさん) 神楽院 長谷寺」で、本尊は十一面観音だ。
寺伝によると朱鳥(あかみどり)元年(686年)に道明(どうみょう)上人が、後述する本長谷寺の位置に三重塔を建てて、銅板法華説相図(千仏多宝塔銅盤)を祀ったのが始まり。のちに神亀四年(727年)に前述した徳道上人が、聖武天皇の勅を受けて、十一面観世音菩薩を今の本堂の場所に祀って、開山したとされている。
西国三十三箇所の基礎を築いた徳道上人ゆかりの寺ゆえに根本霊場とも呼ばれ、貴族や武士からも篤い信仰を受けていた。ちなみに、上記の画像である本堂は徳川家光の寄進で慶安三年(1650)に建てられたものだ。
まぁ、参道。
受付近くにあった普門院不動堂。
仁王門。明治時代に建てられた。
手水場。
長谷寺で有名なのは登廊と呼ばれる階段であろう。399段ある。
途中には塔頭寺院もいくつかある。
中腹にある蔵王堂。蔵王権現を祀り、徳川家光が再建したんだと。
蔵王堂過ぎて右手にある祠。何やったか忘れたw。三つ並んでいるのは調べたら、左から馬頭夫人社、八幡社、住吉社だった。
階段を上りきったところにある三百余社。
塔頭寺院・能満院日限地蔵堂。地蔵菩薩を祀る。
三社権現社。滝蔵三社とも言う。右から石蔵権現(地蔵菩薩)、滝蔵権現(虚空蔵菩薩)、新宮権現(薬師如来)を祀る。
稲荷社。
愛染堂。
大黒堂。
御影堂。弘法大師が高野山入定1150年を記念して昭和59年建てられた。
一切経堂。なんや調査中らしく、立ち入り出来なんだ。
本長谷寺。ここにかつて三重塔を建てて、銅板法華説相図(千仏多宝塔銅盤)を祀っていたのじゃ。本物は宗宝蔵に安置され、ここには複製品が置いてある。
五重塔。昭和29年に建てられた。戦後初めて建てられた五重塔とのこと。本堂の舞台から五重塔は絶好の写真スポットである。
三重塔址。豊臣秀頼が再建したが、明治9年に祝融の災い…ようするに火事だ…に遭って、礎しか残っていない…。
開山堂。
よーし!神仏霊場巡拝の道、奈良・鎮護の道満願したどー!これで残るは京都・楽土の道と、滋賀・欣求の道のみ!