やっぱり京都は多い。しょの2

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  • 妙法院(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:妙法院参照。):神仏霊場巡拝の道・第百十九番(京都三十九番)札所。山号は南叡山で、本尊は普賢菩薩。上の画像は、本堂の普賢堂である。
    最澄が開いたお寺で、もともと、比叡山にあったが、平安時代末期、後白河上皇の時代に京に移転。
    んで、後白河上皇がここで院政を行っていた。さらに、妙法院の近所にある三十三間堂を建立した(厳密には、80年ほどで焼失し、現在の伽藍は後嵯峨天皇が再建したものだが)。
    豊臣秀吉とも関連が深く、秀吉が建立した方広寺の住職を妙法院門主が兼任したり、先祖の菩提を弔うために千人の僧集めて「千僧供養」を行った際にも、庫裏(国宝)で食事を準備したりしたという。


    んで、これがその庫裡(と玄関)。基本的に非公開である。秋に特別拝観があるそうだが。


    山門から見た庫裡。


    本堂へ向かう道。


    宸殿。


    白龍弁才天


    地蔵堂

よし、次は泉湧寺に向かうぞ。

  • 泉湧寺:神仏霊場巡拝の道・第百二十一番(京都四十一番)札所。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来阿弥陀如来弥勒如来の三世仏。
    開基は諸説あるが、オフィシャルサイトによると、平安時代に、弘法大師がこの地に庵を結んだことに始まる。最初は法輪寺で、後に仙遊寺となる。
    一時は荒廃するも、建保6年(1218)に、宇都宮信房当寺が月輪大師・俊芿(がちりんだいし・しゅんじょう)に寄進を受け、伽藍を構築した。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺(せんにゅうじ)と改めた。
    後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓が泉涌寺内に築かれた頃から、天皇家ともつながりを深めていき、歴代天皇の位牌や御影のほかに、後水尾天皇から孝明天皇までの江戸時代の歴代天皇がこの寺で火葬され、「月輪陵(つきのわのみさぎ)」に墓が建てられている。
    それゆえに「御寺(みてら)」と尊称され、明治から戦前の頃は、宮内省がこの寺を管理していた。その頃は、一般公開とかしていたのだろうか。


    山門だね。山門だよ。


    楊貴妃観音堂。納められている聖観音像は楊貴妃の冥福を祈って、夫である玄宗皇帝が造顕された像という言い伝えがある。


    仏殿へ向かう坂。


    舎利殿。舎利とは釈迦の遺骨。ここに納められている遺骨は釈迦の歯で、特に崇められるものだという。


    御座所。ここでご朱印をゲットできる。内部の拝観は有料だったので見ていない。



photo by 663highland

  • 雲龍院西国薬師四十九霊場・第四十番札所。撮った写真がよさげなのがなかったので、wikipediaより拝借。山号は瑠璃山で、本尊は薬師如来。泉湧寺の別格本山だという。塔頭寺院よりは位が上なんだって。
    南北朝時代の応安5年(1372年)、北朝後光厳天皇の勅願により、竹巌聖皐を開山として創建された。その後、同所に後円融天皇が、康応元年(1389年)龍華殿を建立。以来、戦乱などで何度も危機にあいつつも、その都度天皇行幸を受けることになる。
    本格的な中興がなされたのは江戸時代初期。如周宗師が後円融天皇と縁のある龍華院を合併したことが、後水尾天皇の耳に入り、寛永19年(1642年)この地で写経を行って以後、より関係が深まり寺院の再建に繋がった。


    入り口。


    正門。不明門とも言う。



    境内。


    鎮守社。


    俺が撮った龍華殿。正面から撮れる場所がなかったんだよ!


    霊明殿。明治元年(1868年)に再建された位牌堂。江戸時代の歴代天皇や皇女などの位牌が置かれとる。


    なにげに撮った菊の紋章をあしらった灯篭。徳川慶喜が寄進したもので、幕末に薩摩藩が廃棄したものを、この院のご住職が夜中にここに置いたとの逸話があるのだ。


  • 今熊野観音寺西国三十三箇所・第十五番札所。神仏霊場巡拝の道・第百二十二番(京都四十二番)札所でもあるが、既にゲット済み山号は新那智山で、本尊は十一面観音。弘法大師が彫ったとされる。
    寺伝によると、大同2年(807年)、唐から帰ってきた翌年、東寺で真言密教を教えてた空海が、熊野権現のお告げを聞き(山号が新那智山である由来ですな。)、この地に庵を結んだことが始まりとされる。
    それから弘仁3年(812年)に、嵯峨天皇から官財を賜わり、お堂を建てた。さらに左大臣藤原緒嗣(おつぐ)と、その息子藤原春津(はるつ)に受け継がれ、斉衡2年(855)に大伽藍が完成した、と。
    まぁ、戦乱やらでそれらはすべて烏有に帰してしまったのだが…現在この伽藍で一番古いのは本堂で、正徳2年(1712年)には、宗恕祖元律師によって建立されたものである。


    子御大師像。


    熊野権現社。弘法大師熊野権現によって、この地に導かれた伝承は前述したが、本格的に祀られるようになったのは、永暦元年(1160年)。後白河上皇山麓新熊野神社を建てた時に、この寺の本尊をその本地仏としたことから。その際に「新那智山」の山号も賜る。


    鐘楼。鐘は戦時中の金属供出に差し出されたが、そのまま戻ってきたと言う。


    稲荷社。この寺の鎮守社である。弘法大師と稲荷のつながりは深いとオフィシャルサイト。
    ある日、稲を担いだおじいさんが東寺の門の前にいるのを見かけた大師が、話しかけると実はお稲荷さんの化身だったという伝説がある。以来、東寺の鎮守としてお稲荷さんが祀られるようになったと。ちなみに、お稲荷さんの正式名称は宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)って言うんだが、稲を担いで荷物にしてたことから「稲荷」という別名が付くようになったのだ。
    史実はと言えば、東寺の五重塔建立の際に、伏見稲荷神社のある稲荷山の木を用いたことがきっかけである。真言宗の寺には大抵稲荷神社が祀られている理由がわかった気がした。


    もちろん、大師堂はある。


    オフィシャルにも何にもかかれてないが、亀(玄武?)が中国っぽくてキッチュな感じの石碑。