滋賀はまだまだある。

  • 御上神社:神仏霊場巡拝の道・第百四十四番(滋賀十二番)札所。主祭神は、天之御影命 (あめのみかげのみこと)。天津彦根命(あまつひこねのみこと)の子で、天照大神の孫である。
    社伝によると、考霊天皇6年(紀元前285年)6月18日に天之御影命が三上山に降臨したという。その後、このあたりを統治していた安国造(やすのくにのみやつこ)の一族である、御上祝(みかみのはふり)がこの山を神体として祀ったのが始まりと言われる。
    その後、養老2年(718年)3月15日に藤原不比等が勅命により、現在の地(当時は遥拝所だった)に社殿を造営した。現在の社殿は、鎌倉時代後期、14世紀始めごろ整備された。


    ちょうど、俺が行ったときには、「ずいき祭」というお祭りが行われていた。永禄4年(1561年)から450年以上続く国の重要無形民俗文化財で、サトイモの茎で作ったお神輿を奉納していた。この日の夜にも芝原式という祭事が行われて、子供が相撲を取るという。

    さて、他のお社を見て回るか。


    鳥居。


    神武天皇遥拝所。


    楼門。


    楼門隣の末社。右が愛宕神社。火産霊命(ほむすびのみこと)を祀る。左が御鍵取神社。みかぎとり?と読むのだろうか。天津彦根命猿田彦命を祀る。


    鎮魂殿なる建物。


    本殿右手にあるお社。右が三宮神社瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祀る。天照大神の孫で、神武天皇の祖父である。左が大神宮社。天照大神を祀る。


    本殿左手にある若宮神社伊弉諾尊菅原道真公、天石戸別命、天御鉾命(あめのみほこのみこと。七夕の織姫のモデルとのこと)、野槌之命(のづちのみこと。カヤノヒメの別名)を祀る。


    神輿庫。鳳輦神輿(ほうれんみこし)と呼ばれて、高貴な方を乗せる目的もあったという。宝徳2年に作られたという。西暦1450年か、なるほど、古いな!なんだ、このざっくりした感想!


    御上神社の北側にある三上山。ご神体であるこの山は近江富士とも呼ばれている。マツタケが取れるそうで、最近、入山料を取るようになったようだ。


  • 善水寺西国薬師四十九霊場・第四十七番札所。山号は岩根山。本尊は薬師如来
    寺伝によると、奈良時代和銅年間(708〜715年)に元明天皇の勅命により、国家鎮護の道場として建立され、和銅寺と称していた。延暦年間に最澄がこの山で雨乞いを祈願したら、たちまち雨が降り、その洪水で延暦寺を立てる材木を流したという伝承がある。
    本堂は国宝。元の本堂は延文5年(1360年)に焼失するが、貞治3〜5年(1364〜1366年)5月に延海が再建した。明治32年に、重要保護建造物に指定され、翌33年には解体修理をうけた後、昭和29年に国宝に指定された。


    山門はない。


    鐘楼。


    元三大師堂。江戸時代、正徳三年(1713)再建。元三大師良源大僧正を祀る。延暦寺を中興した僧である。


    百伝の池。最澄がこの山に登ったときに、この池から薬師如来像が現れたという。桓武天皇が病気の際にこの池の水を飲ませたところ、たちどころに平癒したので、以来、現在の善水寺に改名したという。中央のほこらは百伝弁才天社。


    でまぁ、現在でもここで水が飲めるのだ。


    六所権現社。オフィシャルサイトによると「伊勢、春日、八幡、賀茂、熱田、鹿島、の六所の神々を一所に奉安する。善水寺開創よりの当山鎮守の神である。」とのこと。


    行者堂。元々は廃仏毀釈の煽りを受けて廃寺に追い込まれた、飯道寺岩本院の行者堂を明治9年に本堂東隣に移築、その後、明治12年に修復・移転した。


    法華塔。


    地蔵堂。元々は不動堂があったという。


    観音堂。オフィシャルサイトによると「元禄9年(1696)乗蓮比丘勧進により岩蔵坊旧跡に堂建立。元東尾本尊、聖観世音菩薩を奉安する。」とのこと。中の観音像は市の重要文化財に指定されている。


    観音堂隣にある巨岩。上のほうに不動尊磨崖仏がある。文亀3年(1503年)に刻まれた。

  • 桑実寺(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:桑実寺参照):西国薬師四十九霊場・第四十六番札所本尊は薬師如来で、山号は繖山(きぬがさやま)。観音正寺と同じ山にこのお寺はある。なので、徒歩でもいけなくもないが、やめた。
    寺伝によると、琵琶湖界隈で病が流行し、天智天皇の四女、阿閉(あべ)皇女も罹患してしまう。ある時、病床で琵琶湖から光が出るという夢を見た皇女の話を聞いた天智天皇が、定恵和尚(藤原鎌足の息子で、談山神社の前身である妙楽寺を創建した僧)に琵琶湖畔で法会を行ったら、琵琶湖に薬師如来が降臨した。
    そして、阿閉皇女や、人々の病気を治して去り、それに感激した天智天皇の勅願により、定恵が白鳳6年(677年)11月8日に創建したと伝えられている。寺名は、定恵が唐から持ち帰った桑の木をこの地にて栽培し、日本で最初に養蚕を始めたことに由来する。山号の繖山(きぬがさやま)も、「繖」という漢字が蚕が口から糸を散らして繭を作ることからきているのだと。
    室町幕府南北朝時代の頃に現在の本堂が建立され(昭和61年に解体修理がなされ、のちに国の重要文化財になった。)、12代将軍足利義晴が、ここに仮の幕府を設置したこともある。その後、戦国時代に織田信長に保護されたりしたし、江戸時代には二院16坊の宿坊が存在していたという。しかしその後荒れて、今のようになる。


    この寺、住宅街の奥まったところにあって、周辺に駐車場がない。数百メートル離れたところに駐車場があったので、歩くしかない。さらに、階段が長く続くのだ。


    出雲神社。


    満願知覚地蔵菩薩と書かれたトタン屋根の小屋…。その近くにあった慈母地蔵像。


    ようやく山門だ。しかし、まだまだ続くぞ。


    山門抜けた後にある、地蔵菩薩像。南北朝時代に作られたもので、明治時代初期にここに移転したという。


    地蔵堂。明和6年(1769年)に建立された。


    しかし、寺まで長ぇな!結構歩いたぞ!


    宝泉坊なる宿坊。他に千光院と正寿院という宿坊もあるが、撮っていない。ちなみに、現在人が住んでいる宿坊は正寿院だけである。


    鐘楼。


    鎮守三社。天和元年(1681年)に建立された。祀られているのは、右からスサノオの妃(表記ママ。櫛稲田姫命か?)、大黒天、スサノオの命。


    経堂。天正4年(1575年)に織田信長によって建立されて、伝教大師を祀ってたという。明治時代に災害で大破するも、大正2年に経堂として再建した。