満願したどー!

神仏霊場もあと4箇所で満願になる。

  • 金剛輪寺:神仏霊場巡拝の道・第百三十五番(滋賀三番)札所。山号は松峯山(しょうほうざん)で、本尊は聖観音
    西明寺百済寺とともに湖東三山のひとつであるこのお寺は、天平13年(741)に聖武天皇の勅願で行基菩薩によって開山されたと伝えられる。本尊は行基自らが彫ったものだそうな。その後、嘉承年間(850年)には延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)がこの寺に来て、延暦寺の末寺として中興したと言われている。
    鎌倉時代には僧坊が百近くある相当な大伽藍だったようだが、天正元年(1573年)、織田信長の焼き討ちに遭い、現存の本堂、三重塔以外は灰になってしまう。
    江戸時代に入ってから、徳川家光より30石を寄進賜り、僧坊が12坊ある伽藍に再び再興する。明治の廃仏毀釈で規模を縮小させられるも、観音様を崇敬する人たちによって、修復がなされて、今に至る。


    黒門。


    西谷堂。阿弥陀如来が祀られていたと思う。


    明壽院。庭園には入っていない。


    地蔵堂。平成9年5月3日に完成。


    地蔵堂の隣にある護摩堂。平成18年10月に完成したのだと。


    参道。結構坂がきつく、距離もある。西明寺といい、湖東三山の寺はやたら歩かせるなぁ。


    写真が残念だが、二天門。でっけぇわらじが左右ぶら下がっている。重要文化財だど。


    鐘楼。


    三重塔は桧皮葺の葺き替え工事でかくのごとき状態。かつては三重目がないほどの荒廃ぶりだったそうだが、昭和53年に復元、補修工事がなされた。
    とりあえず、他のところから三重塔の画像を引っ張ってきた。

    photo by kasesansui


    稲荷社。

  • 百済寺:神仏霊場巡拝の道・第百四十一番(滋賀九番)札所。「ひゃくさいじ」と読む。「くだらじ」ではない。山号は釈迦山で、本尊は十一面観音である。俺が訪れた湖東三山最後の一つだ。縁起のほうは、オフィシャルサイトのそれをかいつまんで説明する。
    百済寺という名の通り、この辺りには弥生時代の頃から百済の国から渡来した人が住んでいたという。我々日本人は百済を「くだら」と読むが、これは奈良時代になってから。百済の人々は「はくさい」と読んでいたという。だから百済寺と書いて「ひゃくさいじ」と読むのだと。
    やがて時は流れ、聖徳太子高句麗の僧・恵慈(えじ)とともにこの地に至った時、泊まり先でなにやら光が見えるので、その先に行ったら、幹が上半分がない杉の木があった。慧慈に尋ねたところ、上半分は百済に運ばれて「龍雲寺」の本尊・十一面観音像に彫られたという。
    それを聞いて、いたく感動した聖徳太子は下半分の幹を根がついた状態で十一面観音像を彫ったといわれ、その日が推古天皇14年(606年)10月21日だったと縁起書には記されている。件の龍雲寺は百済滅亡のあおりで廃寺になり、その所在はとうと知れない…。
    とまぁ、ここまでは寺伝の領域。史実によれば、天養元年(1144年)に、比叡山延暦寺天台宗の別院になった


    平安時代には「百済寺三百坊」と言われるほどの伽藍があったそうだが、明応7年(1498年)と文亀3年(1503年)の2度にわたる大火と、さらに織田信長の焼き討ちが追い討ちをかけて荒廃した。
    寛永11年(1634)、徳川家康に仕えた天台宗の大僧正・天海の弟子、亮算が入山してからは復興が進み、領主井伊直孝の援助などにより、現在の本堂は慶安3年(1650年)に建立されたものだ。


    駐車場降りると本坊の門がある。庭園もあるけど、見ていない。


    本坊となりの不動堂。改修工事やっていた。


    参道へ続く西門。


    そしてまたも長い参道。隣には石段でない「なだら阪」もある。


    参道を歩き続けると仁王門が見えてきた。でっけぇ草履がインパクト大ですなぁ。


    仁王門を抜けても、さらに歩かされるのである(笑)。


    ここには弁天堂があったが、2012年4月3日の爆弾低気圧で倒れた木が直撃してかくの如き次第に…。


    手水場。


    三社権現社。看板が読めなかったので調べたらこうだった。俺は「茶所権現」とか読んでもうたし。


    鐘楼。梵鐘は昭和30年に鋳造されたんだって。

  • 永源寺:神仏霊場巡拝の道・第百四十番(滋賀八番)札所。山号大本山で、本尊は世継観世音菩薩という。
    南北朝時代の興安元年(1361)、近江の国の守護大名だった六角氏頼(佐々木氏頼とも)が寂室元光(正燈国師)を招き、創建したのが始まり。
    世継観世音菩薩の縁起だが、寂室元光が中国から返ってくる際に嵐に見舞われたという。その時に助けてもらった観世音菩薩が小さな像になってこの寺に現れたので、早速大きな観音像を造り、体内に納めてご本尊にしたという。
    月日は流れ…六角氏頼の孫である、六角満高にはなかなか子供が出来なかったので、夜毎、観音菩薩に拝んだところ、世継ぎが出来たという。以来「世継観世音菩薩」と呼ばれるようになったそうだ。
    開山当初より、2000人ほど修行僧が集い、56の庵があったり、応仁の乱の頃には、名だたる僧達がこの地で修行したと伝えられるが、戦国時代には烏有に帰して、衰退してしまう。
    江戸時代になり、妙心寺の僧・別峰紹印が再興に動き出し、後水尾天皇も帰依していた一絲文守(いっしぶんしゅ)が入山してからは、後水尾天皇はもちろん、東福門院後水尾天皇中宮で、徳川家康の孫・徳川和子)、彦根藩の寄進を受け再興は無事になされることとなる。


    やけに昭和テイストな土産物屋(しかし、どれも閉まっていた)が立ち並ぶ駐車場を経て、階段がある。左端にちょこっと出ているめがねの石造は十六羅漢のひとつなのだ。


    総門。


    総門をしばらく歩くと、山門。重要文化財だって。期間限定で上層にも上がれるみたいだが、俺が行ったときは扉で閉ざされていた…。


    ただの休憩所。不動明王が納められている。


    鐘楼。


    法堂兼仏殿。


    経蔵。


    開山堂。

  • 日牟禮八幡宮:神仏霊場巡拝の道・第百四十二番(滋賀十番)札所。祀られている祭神は、誉田別尊(ほんたわけのみこと 応神天皇の事)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと 神功皇后のこと)、比賣神(ひめかみ)。

    社殿によると、131に成務天皇武内宿禰に命じて、この地に大嶋大神(地主神)を祀られたのが、始まりだと。
    應神天皇6年(275年)、応神天皇が近江に行幸されたときに、この神社に御座所を設けて休憩をしたという。後に御座所跡地から、日輪の形を2つ見るとの奇端(そこに立ったら、太陽が二つに見えたって事かしら?)があり、祠を建てて「日群之社八幡宮」と名付けられた。持統天皇5年(691年)には、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌(「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)に因んで「比牟禮社」とさらに改められる。

    正暦2年(991年)に、一條天皇の勅願により、法華峰(八幡山)に宇佐八幡宮を勧請して、「上の八幡宮」を祀った。さらに寛弘2年(1005年)には遥拝所を比牟禮社に建て「下の社」と言われ、天皇武家からの崇敬を受けるようになる。
    天正18年(1590年)、豊臣秀次が法華峰に八幡城を築城のため、上の八幡宮と下の社を合祀した。替地として日杉山に祀る予定だったが、文禄4年(1595年)に秀次が自害。このため八幡城は廃され、日杉山に神社も建立されず、現在の一社の姿となった。廃城後の城下町は商人の町として栄え、比牟禮社は鎮守社として栄え、今に至っている。
    日牟禮八幡宮とという名称になったのは、1966年(昭和41年)神社本庁別表神社に加列してから。


    楼門。


    手水場。


    楽殿


    絵馬舎。


    恵比寿社。事代主神金山毘古神を祀る。金山毘古神大正3年(1914年)に合祀された。


    八坂神社。建速須佐之男命と少名彦命を祀る。大正5年(1915年)に粟島神社を合祀した。


    繁元稲荷社。享保2年(1717年)に稲荷山に勧請。天保13年(1842年)、当地が尾張藩領になったとき山祇神(ヤマヅミ・山の神)を合祀し。明治20年(1887年)に当境内に移り、大正2年(1916年)に幾つかの稲荷社を合祀した。


    神輿庫みたい。なんか平成17年にお神輿を修復したとか書いてあるし。


    大島神社大国主命と大鷦鷯命(おおさざきのみこと 仁徳天皇のこと)を祀る。ここが地主社じゃの。徳川時代までは大嶋大明神と称されていた。大正13年1924年)に若宮神社を合祀した。


    岩戸神社。橦賢木之御魂命と天疎向津姫命を祀る。伊勢神宮の遥拝所も兼ねているみたい。


    左は常盤神社、天照大神豊受大神熱田大神・津嶋大神を祀る。天保13年(1842年)に勧請。明治20年(1887年)に繁元稲荷社と共にこの地に移った。
    真ん中は天満宮。慶長6年(1601)勧請。かつては宮内町で祀られていたのを、大正5年(1915年)に移築。宮内天神・庄六天神とも伝え、大正5年慈元天満宮を合祀。
    右は宮比神社。天宇受売命を祀る。安政5年(1858年)より稲荷山に祀ってあったものを、明治8年(1875年)に移築した。古くから百太夫社と天河枝比売を合祀しているのだと。

というわけで、
神仏霊場巡拝の道、滋賀 欣求の道満願しました。
そして、
神仏霊場巡拝の道満願いたしましたー!

神仏霊場始めたのが2009年の3月7日(同時に西国薬師四十九霊場も始めた)。足掛け3年9ヶ月かけて、ようやく満願したのだ!すごいぞ、俺!
しかし、最後の最後で挫かれた…。
ご朱印をゲットし、満願の証を頂こうとしたら…
「うちではやってません。事務局に問い合わせてください」
はぁ?普通は満願したところでやってくれるんじゃないの?と言っても「事務局に問い合わせてください」の一点張り。渋々「じゃぁ、その事務局どこか教えてくれ」
「わかりません」
もぉええわ!とキレかけるが、神前で一悶着起こしたくないので、その場を去る。
車に戻って、神仏霊場のパンフレットを見たら、事務局は東大寺になっていた。早速連絡する。後日申込書をFAXするという。あと、せっかく満願したのに満願の証を発行してくれなかったことに対しても、不快感を現したし。
全く、足並みは揃えて欲しいものである。