春日大社→興福寺→霊山寺しょの2

しょの1はこちら


  • 興福寺:神仏霊場巡拝の道・第十六番(奈良三番)札所、西国薬師四十九霊場・第四番札所、そして西国三十三箇所・第九番札所。山号はなし。法相宗大本山。本尊は釈迦如来。画像は西国薬師札所本尊の薬師三尊が納められた東金堂。
    元は藤原鎌足の病気平癒を祈願して、669年に建立された京都の山階寺(やまなしでら)が起源とされている。その後、672年の壬申の乱藤原京に移り、厩坂寺(うまやさかでら)と改める。さらにその後、710年の平城遷都に併せて、藤原不比等が現在の場所に移転し「興福寺」となった。同年に春日社の原型も創建されて、双方藤原家の氏寺と氏社となる。
    権力も絶大で、平安〜室町時代は、大和の国は興福寺と春日社が実権を握っていたほど。江戸時代には21000石を与えられたりと、幕府からの加護もあったけど、明治の廃仏毀釈で全てが変わってしまう。
    一蓮托生だった春日社とは引き離され(このとき、春日神社と改称。春日大社に改称したのは戦後になってから。)、興福寺も塀を破壊されるわ、塔頭寺院は全てつぶされるわ、伽藍の一部は奈良公園になってしまうわで、廃寺同然に追い込まれてしまう。その後、再建して、現在に至るわけ。信仰云々よりも観光名所の雰囲気が漂うのはそのせいかいな?


    東金堂と、五重塔をテキトーにパシャパシャ撮った。そんだけ。興福寺は天災や戦禍や僧の内ゲバやらで6度も火災にあっている。この東金堂と五重塔室町時代に再建されたものだ。


    そうそう、今興福寺では中金堂の再建がおこなわれている享保2年(1717年)にまたぞろ火災にあった中金堂だが、享保年間といえば、江戸幕府でもビンボー極まりない時期。いくら幕府から加護を受けていてもそんな時期に潤沢な資金なんか得られるわけもなく、100年近く駆けずり回りようやく仮金堂を建てた。しかしその仮金堂も老朽化し、1975年に仮金堂北側の講堂跡に、薬師寺の仮金堂を移設。旧仮金堂も2000年に解体され、発掘調査をへて、2010年より再建工事が行われている。2018年に落慶される予定。


    現在の仮金堂。立ち入りできなかったので、ローアングルに。


    南円堂。西国三十三箇所の札所本尊である、不空羂索観音が祀られている。神仏習合の時代には、南円堂本尊の不空絹索観音が、春日社の祭神・武甕槌命本地仏とされた。武甕槌命が鹿島から春日社に来た際に鹿に乗ってやってきたことと、不空絹索観音が鹿の皮を纏っていたことからそうなったんだと。ちなみに、この北部に北円堂と、三重塔があるが、こちらも発掘調査が行われていてるようで、立ち入り禁止だったのじゃ。


    国宝館。食堂(じきどう)跡に1959年に建てられた。かの阿修羅像が見られるぞ。見て置いて損はないど。

では、次に霊山寺(りょうせんじ)へ向かおう。霊山寺に向かう途上に、無鉄砲系列のつけ麺専門店「つけ麺無心」でつけ麺を食う。

麺がごっつ太い。稲庭うどんかよ!と突っ込みたくなるほどに。味は、あのスープの味である。スープがぬるくなっても、電子レンジで暖められるのがいいね。暖めたら、ゆずの香りが強くなった。割りスープは魚にしたが、鶏のほうがいいらしい。今度試してみよう。



  • 霊山寺:神仏霊場巡拝の道・第二十八番(奈良十五番)札所、ならびに西国薬師四十九霊場・第二番札所。山号は登美山(とみさん)または鼻高山(びこうざん)。本尊は薬師如来だ。
    山の起源としては、小野妹子の息子である小野富人は、壬申の乱(672年)に関わったことで役職(右大臣)を追われ、この山に閉居したことにはじまる。その後、熊野本宮大社に篭って、薬師如来のお告げを聞いたのちに、この山で薬草を植え、湯治場を作った。以来、鼻高仙人と呼ばれるようになったと伝承されている。
    734年に聖武天皇行基に命じて、お堂を建立、736年に来日したインドの僧・菩提僊那(ぼだいせんな)がこのお堂に霊山寺と名付けた。


    神仏習合の名残から、鳥居を山門にする寺にはいくつか参ったことがあるが、ここまでデカデカと建ててているのは珍しい。

    本堂の周りにあった鐘楼と経蔵。鐘楼は重要文化財だぞ。


    本堂裏手にある、十六所神社。かつては霊山寺の鎮守社だったという。向かって左から、春日社、住吉社、本社、龍王社、大神宮。


    奥の院へ向かうときにあった、不動尊社と地蔵院。


    さて、ここより奥の院を目指す。本堂から1キロほどあるぞ。


    奥の院。弁財天を祀っている。弘法大師がこの寺に来たときに、登美山には竜神がいると告げ、奥の院弁才天を祀ったと言われる。小川をはさんだ向かいに建てられているが、門扉が閉められていて、近くで拝めない。年に一度の例祭のときしか開かないという。鬱蒼とした林と小川で涼しいが、じめじめしている。


    奥の院を後にし、本堂の南側にある三重塔を見に行こう。画像は左が弁天社、右が如意輪観音社。


    三重塔へ向かう途中にある開山堂。弘法大師像と歴代徳川将軍の位牌が納められている。おいおい、開山したのは行基だろ?江戸時代までは行基を祀っていたそうだ。


    行者堂。役行者不動明王青面金剛を納める。


    三重塔。


    ご朱印をもらうか。本坊周辺は新しい建物が多いから、写す価値は少ないと判断。この画像の弁天堂は、本坊の向かいにあるのだが、昭和10年奥の院の弁財天を勧請(分祀)したものだという。