奈良市内は一通り回れた。


  • 新薬師寺西国薬師四十九霊場・第六番札所。山号は日輪山で、本尊は薬師如来
    東大寺の記録には「天平19年(747年)、光明皇后が夫である聖武天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った」とされているが、正確な時期やいきさつはよくわかっていない。春日山にあった香山堂と合併したとも、逆に聖武天皇光明天皇の眼病平癒のために建てたという説もある。
    かつては七堂伽藍の広大な寺院だったそうだが、平安時代に落雷でお堂の大半が焼失。現在の金堂は、実は別のお堂を移転したものだといわれる。それから、鎌倉時代明恵(みょうえ)上人が再興し、現在の伽藍にいたる。
    ここで有名なのは、やはり薬師如来像と眷属の十二神将像であろう。中でもバサラ大将は切手のデザインに使われたり、奈良の観光がらみで写真として見かける人も多いだろう。これは、見て置いて損はないぞ。


    山門。本堂以外の堂宇は鎌倉時代に建てられたものである。


    鐘楼。


    実忠和尚御歯塔なる石塔。調べたら、実忠和尚は東大寺の僧で、あの東大寺二月堂のお水取りを創始した方なのだ。元々は十三塔だったが、倒壊やらで現在は五塔になっている。


    稲荷社。


    稲荷社の近くにあった石仏。


    地蔵堂。でも祀られているのは十一面観音だったりする。かつて祀られていた地蔵菩薩は本堂に安置されている。


    竜王社。


  • 元興寺西国薬師四十九霊場・第五番札所。「がんごうじ」と読む。山号はなし。本尊は上画像の極楽坊本堂にある智光曼荼羅。仏像ではなく、智光という僧が描いた曼荼羅図である。
    蘇我馬子が飛鳥に建立した、法興寺(日本最古の仏教寺院といわれている)が平城京遷都に伴って現在の場所に移転し、元興寺となったとされる。(元の場所は現在飛鳥寺が建っている。)
    奈良時代には七堂伽藍を誇る大寺院だったが、平安時代以降は衰退し、現在の本堂は明治の頃まで極楽院と呼ばれていたものの、たいそう荒れ果てた寺だったという。
    戦時中の1943年に辻村泰圓が住職になって以降は、伽藍の整備や寺宝の修復等に住職が腐心したおかげで、1955年に「元興寺極楽坊」に改称。さらに1977年に現在の「元興寺」と改称された。


    東門。元は東大寺にあったという。


    宝物殿。ここに西国薬師札所本尊の薬師如来がおます。


    小子坊。


    禅室。通常、内部は非公開である。この近くで、砂利に足を滑らせてコケた(笑)受身は取れたが、肘を擦り剥いた。こけてから地面に触れるまでが何でかスローモーションに感じられたり。


    禅室と小子坊の間にある浮図田(ふとでん)。浮図とは、仏陀、仏塔のことを言う。それを田んぼのように整然と整備したことでこう呼んでいるのだと。毎年8月23日・24日に行われる地蔵会では、この周りに灯明皿が並べられるという。


弁天社。真言は「おんさらそばていえいそわか」



  • 般若寺西国薬師四十九霊場・第三番札所。山号は法性山。本尊は本堂にある文殊菩薩
    629年に高句麗の僧、慧潅法師が開基で、735年に聖武天皇勅願寺として、この地に直筆の『大般若経』六百巻を地中に納め、伽藍を整え「般若寺」と命名したと伝えられるている。平安時代までは広い伽藍であったが、源平合戦のあおりで焼失したり、鎌倉時代には良慧上人と叡尊上人によって中興されるも、戦国時代にまたも焼失。今の本堂は1667年に建てられたものだ。さらに廃仏毀釈で昭和に入るまで廃寺同然になっていたが、戦後には伽藍が整備されて、現在ではコスモス寺という愛称で知られるようにもなった。


    俺が行ったときにはコスモスの苗が植えられたり、その準備をしている状況だった。秋になればさぞや綺麗なコスモスが大輪を描くのだろう。


    楼門。鎌倉時代に建てられた。国宝だよ。


    鐘楼。


    雑草に囲まれてこじんまりとしているが、天神社である。


    十三重石宝塔。1253年頃に東大寺再建事業に来日した南宋の石工、伊行末によって建立される。本堂よりも歴史が古い。14.2mというまぁ、どでかい十三塔でおます。東西南北に向かって顕教四仏と呼ばれる仏が彫られている。東:薬師如来、西:阿弥陀如来、南:釈迦如来、北:弥勒菩薩となっていて、ここの薬師如来が西国薬師の札所本尊なわけです。


    経蔵。鎌倉時代に経蔵に改造されたといわれている。その前にはどのような目的で使われていたかは、わかっていないという。

さ、どんどんまいりましょう。

  • 大安寺:神仏霊場巡拝の道・第十七番(奈良四番)札所。山号はない。本尊は十一面観音。
    飛鳥時代、病に付していた聖徳太子が、後に舒明天皇(じょめいてんのう)になる田村皇子に熊凝精舎(聖徳太子が建てた仏教の学習機関みたいなもんで、現在の額安寺)に寺を建てよと命じたのが始まりと言われている。
    んで、舒明天皇に即位後、百済川の近くに百済大寺を建てたのちに、673年に美濃王と紀訶多麻呂によって高市に移転。677年には高市大寺から大官大寺と改称する。
    710年の平城遷都に併せて移転し、大安寺となる。当時は大伽藍であることがこちらでも垣間見れるし、有名な僧もたくさんいた。唐招提寺を建立した鑑真和上を日本に案内した普照(ふしょう)や、弘法大師空海の師といわれている勤操(ごんそう)などが主だったところか。
    しかし、都が平安京に移るとだんだん衰退していき、1017年の大火で伽藍をほぼ全て失ったことでがダメ押しになる。以降時代を通じて再興が図られるもうまくいかず、ようやくまともに整備が進んだのが明治になってからである。
    明治十五年(1882年)、奥山慶瑞・佐伯泓澄が私財を投じて小堂と庫裏一棟を建立し、さらに石堂恵猛等によって現本堂が建立された。昭和に入り、河野清晃が住職になってから、さらなる寺の復興に尽力を尽くし、平成に入って堂宇もいくつか建つようになり現在にいたる。俺が生きている間に、薬師寺興福寺のように伽藍が整備されていくのだろう。
    ちなみに、大安寺の伽藍は奈良県の史跡に指定されている。


    南門。平成12年に建てられた。


    手水場。


    嘶堂(いななきどう)。平成9年に完成した。馬頭観音像が納められとる。



  • 帯解寺:神仏霊場巡拝の道・第十八番(奈良五番)札所。「おびとけでら」と読む。山号は子安山。本尊は地蔵菩薩
    弘法大師の師である勤操が開いた、霊松庵という巖淵千坊の一つが大元といわれる。
    なかなか子宝に恵まれなかった、文徳天皇后の染殿皇后(藤原明子)がこの庵で祈願をしたところ、惟仁親王(後の清和天皇)が産まれた。858年、文徳天皇の勅願により伽藍が建立され、勅命により帯解寺と名乗るようになった。
    以来、安産や子供が授かるようにと祈願する寺として、篤い信仰を受けている。かの江もここで祈願して、徳川家光を授かったといわれているし、徳川家光の側室の御楽の方も祈願して徳川家綱を授かったというのも有名な話。
    近年では、皇室のかたがたもここで安産祈願をしてもらっていることでも有名ですな。俺が行った際も、夫婦や妊婦さん、赤ちゃんを連れた家族がよーけお参りしておりましたわ。


    山門と鐘楼。


    手水場。手水鉢は徳川家綱が寛文2年(1662年)3月に寄進した。


    なんかお社。稲荷社だとは限らない。


    浪切不動尊



  • 法華寺:神仏霊場巡拝の道・第二十二番(奈良九番)札所。山号はなし。本尊は十一面観音。
    聖武天皇后の光明皇后が建立した。聖武天皇の勅願で建てられた寺は「国分寺」と「国分尼寺」呼ばれている。国分寺の総本山が東大寺なら、国分尼寺の総本山がここ法華寺なのだ。正式名称は「法華寺門跡」。皇族や貴族が住職を勤める寺は門跡寺院だから。
    法華寺のある場所は元々は藤原不比等の邸宅であった。藤原不比等亡き後、娘である光明皇后が家を継ぎ皇后宮とした。そして、745年にここを宮寺にしたことが始まりとされる。法華寺と名乗るようになるのはそれから2年後。
    その後、造法華寺司を中心に伽藍の整備が始まるのだが、その完成を見届けることなく、光明皇后は760年に崩御してしまう。一周忌は、なくなる前年から建築された阿弥陀浄土院で営まれた。伽藍が完成したのは782年頃とされている。
    その後、平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたが、鎌倉時代になってから僧・叡尊によって再興される。尼寺に始めて戒壇を設けて、そこで尼になるための儀式を執り行えるようにしたのが最大の功績だろう。
    しかし、室町時代には戦火や天災でこれも失ってしまい、安土桃山時代の1601年に淀君の発願によってふたたび再興する。今日残っている堂宇はこの頃に作られたものである。


    赤門


    横笛堂なる建物。『平家物語』や高山樗牛の「滝口入道」で知られる悲恋物語のヒロイン・横笛が尼となった後に住んだとされる建物…とのこと


    薬師堂と稲荷神社。稲荷神社の扁額には「正一位喜市稲荷大明神」とある。


    鐘楼。


    護摩堂。

ふぃー、やっとこさうpしたぞ。