京都は多い。



  • 吉田神社:神仏霊場巡拝の道・第百十番(京都三十番札所)。主祭神は建御賀豆智命 (たけみかづちのみこと、武甕槌命)、伊波比主命 (いわいぬしのみこと、経津主命)、天之子八根命 (あまのこやねのみこと、天児屋根命)、比売神 (ひめのかみ)。まぁ、春日大社と同じですな。それもそのはず、この神社は平安京が開かれた65年後の貞観元年(859年)に、藤原山蔭総持寺の開基でもありますな。)が春日神社の四神を勧請(まぁ、暖簾分けみたいなもんですな。)したことによってによって開かれた神社である。かつて、ここは藤原家の氏寺だったのだ。
    それから鎌倉時代以降は卜部家が神職を務め、吉田兼倶吉田神道を開いてからは皇族からも篤い信仰を受け、明治時代までは神道界では権威を持っていたと言う。


    鳥居と手水場。


    祖霊社。太元講社という、吉田神社近くの吉田神葬墓地(神道でも墓はあるわい。)を管理している団体の歴代社員を祀っているのだと。


    今宮社。大己貴神(おおなむちのかみ)、大山祇神(おおやまづみのかみ)、健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)を祀る。吉田町の産土神である。その土地でうまれた人を守護する神様なのじゃ。


    この神社があるのは吉田山というのだが、山全体に摂末社が点在しているので、結構歩かされるぞ。山頂には公園もあって、家族がブランコで遊んでた。


    山蔭神社。藤原山蔭恵比寿神を祀る。吉田神社を創建した人であるが、もう一つの顔として、日本料理の基礎(Wikipediaの「四条流庖丁道」参照)を築いた人である。この神社は、吉田神社御鎮座1100年(昭和32年)を機に、料理関係者の協賛によって建てられた。



    大元宮。天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)、天照皇大神豊受大神、全国の式内神3132座を祀っている。えらい多いな!八角形の本殿は、寺では壷坂寺とかあるけど、神社ではここだけだという。中に入れるのは毎月1日、正月と節分の3が日だけだという。

     
    大元宮の向かいにある三社社。多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)、狭依毘売命(さよりひめのみこと)、多岐津毘売命(たきつひめのみこと)、金山毘古命(かなやまひこのみこと)、金山毘売命(かなやまひめのみこと)、菅原神(すがわらのかみ)を祀る。元は吉田家の鎮守社だったのをここに移転したそうな。


    右が竹中稲荷社。宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、天鈿女神(あめのうずめのかみ)を祀る、鳥居で隠れているけど、左が天神社。菅原道真を祀る。


    竹中稲荷社の裏に回ると、こんな感じで稲荷塚が多く納められとる。


    左が竹釼稲荷神社。竹中稲荷神社の奥の院らしい。右が薬力大明神なるお社。吉田山内にあったのだが、詳細はオフィシャルサイトにもないのでわからん。


    神龍社。吉田神道創始者である吉田兼倶を祀る。


    果祖神社。日本のかんきつ類(みかんやいよかん)の元祖である橘(タチバナ)を日本に持ち帰ったとされる田道間守(たじまもり)と、日本で初めて饅頭をつくったとされる林浄因(はやしじょういん)を祀っている。製菓業界が協賛して山蔭神社同様、吉田神社御鎮座1100年(昭和32年)を機に建てられた。


    春日神社を勧請したんだから、もちろん鹿も祀られている。さすがに本物の鹿はおらんが。


    摂社・若宮社。天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀る。アマコヤネと比売神の子供ですな。


    摂社・神楽岡社。大雷神(おおいかづちのかみ)、大山祇神(おおやまづみのかみ)、高龗神(たかおかみのかみ)を祀る。この地域(吉田神楽岡町という)の地主神である。


吉田神社の隣りにあった、宗忠神社という神社。天照大神と黒住宗忠を祀る。黒住宗忠は黒住教創始者。黒住宗忠は、皇族や摂関家から帰依を受け、吉田神社を運営する吉田家から「宗忠大明神」の称号を得て、吉田神社の隣りにこの神社を建てることを認められてる位だ。宗忠神社は、孝明天皇(江戸時代最後の天皇)の勅願所にもなっていたという。


末社の白山社。白山比竎神、伊奘諾尊、伊弉冉尊を祀る


末社の忠春社。黒住宗忠の弟、赤木忠春を祀る。



  • 真正極楽寺:神仏霊場巡拝の道・第百十一番(京都三十一番)札所。真如堂(しんにょどう)という別名もある。山号は鈴聲山(れいしょうざん)で本尊は阿弥陀如来
    永観2年(984年)に、比叡山の戒算上人(かいさんしょうにん)が、比叡山常行堂のご本尊だった阿弥陀如来を東三條女院藤原詮子(一條天皇の母であり、藤原道長の姉である)の離宮があった現在の地に移して安置したのが、この寺の始まりである。
    その後、一条天皇勅願寺になるが、応仁の乱で荒廃してしまう。足利家や豊臣家の尽力によって方々を移転していたが、東山天皇の勅願により、現在の地に落ち着いたのが元禄6年(1693年)。


    赤門と隣にある石碑


    三重塔


    三重塔の隣にある鎌倉地蔵堂


    本堂の左向かいにある千體地蔵堂。この他にもお堂はあるが、本堂隣の書院内の庭などにあったりする。しかも基本的に撮影禁止なのじゃ。なので、画像は、ない。実際に見に行こう。


  • 聖護院:近畿三十六不動尊霊場・第十八番ならびに神仏霊場巡拝の道・第百十二番(京都三十二番)札所。山号はなし。本尊は不動明王である。
    開基は、三井寺の僧、増誉(ぞうよ)。増誉は、寛治4年(1090)に白河上皇熊野三山参り(熊野御幸)の先達を務めた。その業績を称えられて、聖護院という寺を賜ったのが始まりである。
    その後、後白河天皇の皇子、静恵法親王(じょうえほっしんのう)がこの寺に入ってからは、門跡寺院となって、明治時代まで皇族や摂家(公家の中でも、特に藤原氏の血をひく人たちのこと)が住職を務めていた。
    画像はこれだけ。というのも、宸殿などの堂宇は予約せんと見られんから。本尊は庫裡があってそこで見られる。でも、鉄筋の建物の中で見るのは味気ないなぁ…。

気を取り直して、次参りましょう。


終盤になって、ペースが落ちてきたが、まぁ、ぼちぼちやってまいりますわ。