やっぱり京都は多い。しょの1

  • 三室戸寺:神仏霊場巡拝の道・第百二十四番(京都四十四番)札所ならびに、西国三十三箇所・第十番札所。山号は明星山で本尊は千手観音。
    寺伝によると、宝亀元年(西暦770年)のこと、光仁天皇の勅により、行表禅師が創建したという。夜な夜な宮中に金色の霊光がさし込むのを見た光仁天皇が、右少弁・藤原犬養に霊光の源を探せと勅を命じた。
    犬養は宇治川の支流の志津川の渓流に沿って登って行くと、滝壺の中に二丈余りの千手観世音菩薩を見た。犬養は、無我夢中で飛び込んだら、一尺二寸の二臂の尊像と化した。
    犬養はその像を都に持ち帰って、その後、光仁天皇は行表禅師を招き、この像を本尊として安置して御室戸寺と称するよう勅されたのである。
    さらにその後、桓武天皇が自ら彫った千手観世音菩薩像の胎内に本尊を納め、本堂を建立するなど、以降歴代の天皇からの崇敬を受けて大伽藍を築くことになる。
    しかし、寛正3年(1462年)12月13日の大火で大半が焦土と化す。それからも織田信長によって焼き討ちされたりなど、何度も荒廃したが、ようやく現在の伽藍になったのが江戸時代後期の文化11年(1814年)。法如和尚の力によって現在の本堂に再建された。


    受付前。ここから有料でのす。


    受付の正面にある、新羅大明神。貞観年間(859年-877年)に智証大師が本堂の横に園城寺新羅善神堂を勧請して建ててたのを、昭和30年にここに移転した。祀られている新羅大明神は五十猛命(素盞嗚尊と稲田姫尊の子)のことである。


    山門。


    庭園。手前がアジサイで、奥がツツジだ。宇治だからと言って、茶畑ではない。


    道中にあった小さな祠。薬師如来が収めてある。


    ここを登れば、本堂だ。ようおまいり。


    階段登ってすぐのところにある宇賀神像。出来て間もないか?頭は老人で体は蛇という、わけわからん形態だが、ちゃんとした言い伝えがあるんだ。詳しくはオフィシャルサイト見て。あらすじは、蟹を助けた娘があるとき、蛇に婚約を迫られて、三室戸の観音様にお祈りしたら、蟹が蛇をやっつけた。蛇を供養するために娘はこの像を奉ったという伝説。


    手水場。


    この時期は、ハスの季節。本堂の前はハスがよーけ植えてある。若干季節はずれてるけどハスの花も撮りますた。


    本堂右隣の阿弥陀堂親鸞の父、日野有範の供養のために建てられた。


    鐘楼。これも含めて、ここの堂宇は江戸時代に造られたものばかりである。


    三重塔。wikipedia:三室戸寺によると、もともとは兵庫県作用町の高蔵寺にあったのを、明治43年に移設したもの。その後、昭和52年に現在の位置になった。高蔵寺の三重塔跡地はこちら参照。


    霊宝殿。有料だったので見ていない。


    十八神社。室町時代に建てられた、ここの堂宇では唯一の重要文化財三室戸寺が出来る前、この地には三輪明神を祀った三室神社があったという。で、三室戸寺が作られる際に、この神社を鎮守社にして、さらに十五神を合祀して十八神社になったと。参考リンク


    十八神社隣の末社。扁額がなかったが、調べたところ、神明神社だと言う。天照大神を祀ってるんですな。


    その隣りの末社。右が稲荷大明神で、左が児守社。


  • 毘沙門堂:神仏霊場巡拝の道・第百二十七番(京都四十七番)札所…とまぁ、現在本堂が改修工事をしているため、改修前の画像を以下にあげておきます。creative commonsライセンスだぞ。


    Photo by libera-softvaro

    山号は護法山で、本尊は毘沙門天伝教大師作で、秘仏になっている。
    寺伝によれば、文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)行基が開いた護法山出雲寺が始まりだという。その後戦乱などで何度も荒廃するが、徳川家康のブレーンであった僧、天海とその弟子の公海によって山科安朱の地に移転し、寛文5年(1665年)に本堂が完成した。その後、後西天皇皇子の公弁法親王が入寺し、門跡寺院毘沙門堂門跡」と称されるようになった。


    仁王門もこりゃまた改修工事であった。creative commons下の画像でよさげなのが見つからないので、各自ググるように(笑)。そして、紅葉に驚愕するがよい。ここは隠れた紅葉スポットでもあったのじゃ。


    手水場。工事中で水は出ない。


    一切経蔵。


    稲荷社?


    高台弁才天。オフィシャルサイトによると、元々は大阪城内で祀られていたと言う。


    鐘楼。木で思いっきり隠れとる。


    山王社。稲荷明神と山王権現と御霊神社を祀っている。


    左が霊殿、右が宸殿。霊殿から先は有料だったので見ていない。動く襖絵や天井龍などギミックのある絵画が多数展示されているとオフィシャルサイト。紅葉の季節にもう一回いってみようかな?

  • 元慶寺(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:元慶寺参照。):西国三十三箇所・番外札所。山号華頂山で、本尊は薬師如来
    藤原高子の発願により元慶元年(877年)に建立。桓武天皇の孫で、仁明天皇崩御により出家した僧正、遍昭を開基とする。ちなみに、遍昭百人一首

    天つ風雲の通い路吹きとじよをとめの姿しばしとどめむ

    を詠んだ方でもあるぞ。

    西国三十三箇所を中興した花山法皇がこの寺で出家した寺で有名だが、ちょっとした裏話もある。
    永観2年(984年)に17歳で即位した花山天皇(出家後、花山法皇になる。)は、藤原義懐(よしちか)と藤原惟成(これしげ)を中心に政策を行っていた。しかし、寵愛した女御藤原忯子(ていこ)がなくなったことから出家を考えるようになる。
    それを知った藤原兼家が、外孫の懐仁親王(後の一条天皇)を即位させたいがために、次男・藤原道兼に自らも出家するから、天皇にも出家するようにそそのかせと命じた。
    道兼とともに出家を決意した花山天皇は、寛和2年(986年)6月23日丑の刻に、内裏を出て元慶寺に入る。その直後に道兼は姿をくらます。
    「だまされた!?」
    花山天皇が気づくも時は遅し。藤原兼家によって、天皇の証である三種の神器が、花山天皇のいた所から、懐仁親王の元に持ち出されていた…出家しか道がなくなってしまったのである。時に19歳、在位わずか2年の夏の日であった…。

    後に寛和の変(かんなのへん)と呼ばれる政変である。政策におけるブレーンであった義懐と惟成も、後を追って出家する。
    兼家はというと、即位した一条天皇はまだ7歳の幼子。摂政を仰せ遣われて以降、豊臣秀吉が関白になるまで、藤原家が摂関政治を牛耳るターニングポイントになった。道兼は兄のせいでなかなか関白になれなかったが、兄が次々死んでようやく関白になったと思ったら、7日後に病死してしまう。


    山門。画像検索したら、大抵このアングルよね。てか、ブロック塀ジャマ。あと、ここには梵天と帝釈天像が本来あるのだが、京都国立博物館に寄託されている。

長いな!しょの2に続く