あとちょっとで、京都満願。

気づいたら、神仏霊場の京都札所もあと6箇所だけになっていた。上京区界隈に固まっているので、まとめてやっちゃいましょう。

  • 御霊神社(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:上御霊神社や、「上御霊神社」で検索):神仏霊場巡拝の道・第百番(京都二十番)札所。
    祀られているのは、以下の通り。
    崇道天皇早良親王光仁天皇の皇子)
    井上大皇后光仁天皇の皇后)
    他戸親王光仁天皇の皇子)
    藤原大夫人(藤原吉子桓武天皇皇子・伊予親王の母)
    橘大夫(橘逸勢
    文大夫(文屋宮田麿

    いずれも、謀反やら暗殺やら疑いをかけられ、地位を剥奪されて亡くなった人(そして、死後に位が復活する。)ばかりだ。さらに、後になって火雷神(以上六柱の荒魂。菅原道真とも言われている。)と、吉備大臣(吉備真備)も祀るようになった。

    桓武天皇の時代に各地で疫病が流行した。これは怨霊の祟りであるとして、霊を神として祀って鎮まってもらおうという考えがあった。これが御霊信仰である。貞観5年(863年)5月20日平安京神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢文屋宮田麿らであった。この御霊会が上下の御霊神社の創祀であるとしている。
    創建時は出雲寺に隣接してて、上出雲寺御霊堂(下御霊神社は、下出雲寺御霊堂ですな)と呼ばれていた。その出雲寺は毘沙門堂として現在に至る。
    御霊会は朝廷が始めたことだから、もちろん天皇から篤い崇敬を受けてた。歴代の天皇はもとより、現在の皇室の方々も訪れたことがあるという。


    鳥居と南門。南門は伏見城の四脚門を移築したものだという。


    境内。室町時代の文正2年(1467年)1月18日、畠山政長の軍と畠山義就(よしなり)の軍がここ(御霊の森)で合戦を行った。御霊合戦とも呼ばれたこの戦いは、応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる。応仁の乱を調べてみたが、とてもすぐに把握できない。


    手水場と絵馬所。


    楼門。


    福寿稲荷神社。


    神明神社伊勢神宮ですな


    厳島神社


    長宮三十社。末社がなんと三十社も並んでいる!左から、春原社・荒神社・稲葉社・今宮社・熊野社・愛宕社・熱田社・多賀社・厳島社・猿田彦社・貴布禰社・丹羽社・梅宮社・八坂社・廣田社・吉田社・日吉社・住吉社・龍田社・広瀬社・大和社・石上社・大神社・大原社・平野社・春日社・松尾社・八幡社・賀茂社・鴨社!扁額メモったわw!


    こちらはいくつかの祠が中で並んでいる。左から、大舞宮・白鬚社・疫除社・淡嶋社・天満宮・多度神社・貴船社


    花御所八幡宮

  • 相国寺:神仏霊場巡拝の道・第九十九番(京都十九番)札所。山号を含めた正式名称は「萬年山 相國承天禅寺(まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)」で、本尊は釈迦如来
    永徳2年(1382年)、室町幕府3代将軍・足利義満が開山した。幼少からの禅の師であった春屋妙葩(しゅんのくみょうは)に開山してもらう予定が断られ、妙葩の師夢窓疎石(むそうそせき)を開山とするなら、自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が義満とともに開山となった。
    火災や戦火で何度も烏有に帰したが、天正12年(1584年)西笑承兌(さいしょうじょうたい)が住職となり、復興を進めた。上の画像の法堂はこの時期に建立されたものである。しかしそれ以外の建物は再び火災で焼失。現在の方丈等は19世紀初めの文化年間の再建である。
    金閣寺(鹿苑寺)銀閣寺(慈照寺)は、この寺の塔頭寺院なのだ。
    ていうか、なんで日曜日はご朱印受付してないんだよ!土曜日も午前中だけて!おかげで出直す羽目になる…満願が遠のいた…。


    右が鐘楼。天響楼(てんきょうろう)なる名称で、平成二十二年夏に建立されたばかりのピッカピカ。左が鎮守社の八幡宮。鐘楼の落慶にあわせてこちらもピッカピカになっている。オフィシャルサイトとぜんっぜん違うほどに。


    法堂の裏にある方丈だが、かくのごとく工事中。普段は拝観できるそうだが、残念。


    方丈の隣にある、庫裡。

  • 大聖寺門跡(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:大聖寺 (京都市)参照。):神仏霊場巡拝の道・第九十八番(京都十八番)札所。山号は岳松山(おかまつざん)で、本尊は釈迦如来。中は非公開である。だから写真もこれだけしかない。玄関で呼び鈴押したら、尼さんが来てご朱印もろた。
    元々は、光厳天皇の妃であり、尼僧として臨済宗を学んでいて無相定円尼が、足利義満によって花の御所に招かれ、そこに建てられた岡松殿に住んでいたのを始まりとする。ちなみに、無相定円は義満の正室・日野業子の叔母でもある。
    永徳2年(1382年)にそこで生涯を終えた後に、義満は岡松殿を大聖寺命名し、無相定円の姪である玉巌悟心を開基にした。
    南北朝の頃から、北朝後円融天皇の皇女が入寺したことで、門跡になっていたのだが、寺サイドが正式に門跡にしているのは、南北朝以後の、後小松天皇の皇女が入寺してからである。
    以後、歴代天皇の皇女が門主を務め、正親町天皇(おうぎまちてんのう)の皇女のが入寺してから、尼門跡第一位の綸旨(りんじ、蔵人が天皇の意を受けて発する文書…要するに天皇の言葉を記した文章だ)を贈られたという。こうして、天応からのお墨付きを受けて、京都で最も権威のある尼寺になったのだ。
    後水尾天皇の皇女が入山していた頃は、天皇自身もこの寺にたびたび訪れて、俳句などを楽しんだと言われている。

    何度かこの寺は移転しているが、現在の場所に落ち着いたのが、1697年(1696年とも)。元は聖護院があった場所だが、火事で今の場所に移転。跡地に建てられたのがこの寺。しかし遡ると、なんとここは花の御所岡松殿跡地でもあった!なんという縁(えにし)だ!

  • 宝鏡寺門跡:神仏霊場巡拝の道・第九十七番(京都十七番)札所。ここも中は非公開だった。なので、画像もこれだけ。山号は西山(せいざん)で、本尊は聖観音菩薩。伊勢の二見浦で漁網にかかったものと伝えられている。
    応安年間(1368〜75)、光厳天皇皇女である華林宮惠厳(かりんのみやえごん)が、御所に祀られていたこの聖観世音菩薩像を建福尼寺に奉納安置して、名前を改め開山したのが始まりである。
    寛永21(1644)年に、後水尾天皇々女久厳理昌禅尼(くごんりしょうぜんに)が入寺されてから、皇室とのゆかりが再び強まり、以後歴代皇女が住持を勤めるようになった。
    現在の伽藍は、寛政10(1798)年に竣工されたもの。書院をはじめ、本堂・大門・阿弥陀堂・玄関・使者の間の六棟が復興された。

    人形寺としても有名である。寺へ入った皇女へ御所から人形が贈られてきたため、歴代皇女の人形を保存している。そのため人形の寺として知られるようになり、一般からも供養として人形が納められるようになった。


    山門。
    えー、画像はこれしかありません。


  • 今宮神社:神仏霊場巡拝の道・第九十六番(京都十六番)札所。祀られている主祭神は、大己貴命事代主命奇稲田姫命
    上御霊神社でも述べたが、疫病や飢饉が起こると、怨霊を鎮めるために御霊会を方々のお社で行っていた。今宮神社になる前のこの場所でもそれは行われていた。正暦5年(994年)6月、一条天皇の御代によって。これが紫野御霊会であり今宮祭の起源になったのだと。
    その後、、長保3年(1001年)5月に現在の場所に神殿が造営されて3柱の神が祀られたのが始まるとされる。
    徳川家光の側室で綱吉の母である桂昌院から篤い崇敬を受け、元禄七年(1694年)には荒廃していた社殿の造営にも関わった。桂昌院は側室になる前は、京都の八百屋の娘「お玉」だったことから、玉の輿という言葉の由来になったとか。


    東門。


    楼門。今のお社は、明治三十五年に再建されたものである。ちなみにこの楼門は大正時代に創建された。


    楼門から見た境内。


    手水場と神馬舎。


    宗像社。田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の三神(宗像三女神とも呼ばれる)を祀る。


    月読社。月読尊(つきよみのみこと)を祀る。


    地主稲荷神社。倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)・猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を祀る。名前の通り、地主神なのだ。


    若宮社。天津彦火瓊瓊杵尊(ニニギ。神武天皇の祖父)、高皇産霊尊(タカムスビ)を祀る。


    紫野稲荷社。隣りには織田稲荷神社がある。織田信長の墓があった場所に建っていたが、昭和62年にここに移った。


    日吉社大山咋神(おおやまくいのかみ)大物主神(おおものぬしのかみ)を祀る。


    大将軍社。素盞嗚尊と同一神とされる牛頭天王(ごずてんのう)と八大王子(八神・素盞鳴尊の五男三女)を祀る。


    八幡社。


    八社。右から大国社・蛭子社・八幡社・熱田社・住吉社・香取社・鏡作社・諏訪社。


    織姫社。栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)を祀る。


    楽殿


    本殿の隣りにある疫神社。素戔嗚尊を祀る。今宮神社が出来る前には、素戔嗚尊を祀るお社があったそうな。


  • 加茂別雷神社:神仏霊場巡拝の道・第百二番(京都二十二番)札所。主祭神賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)。上賀茂神社の正式名称である。
    オフィシャルサイトによれば、神代の昔、本社の北北西にある、秀峰神山(こうやま)[右図]に御降臨になり、天武天皇の御代(678)、現在の社殿の基が造営されたという。
    以来、下鴨神社と並んで天皇や幕府の加護を得て、今に至る。俺が行ったときには丁度特別拝観が行われていて、本殿を間近まで見られたぞ。


    二の鳥居。でかいぞ!


    鳥居を抜けた後の境内。


    土舎。


    細殿。


    細殿の前にある立砂。円錐状に2つ並んでいるのは、御神体である神山を模したものだという。


    手水場。


    末社・橋本神社。衣通姫神(そとおりひめのかみ)を祀る。


    本殿の左隣にある摂社・新宮社。高龗神を祀る。その奥には末社・山尾社。大山津美神(おおやまつみのかみ)を祀る。


    伊勢神宮の遥拝所。


    末社・川尾神社。罔象女神を祀る。上賀茂神社は、式年遷宮を行っていて、あちこち改装工事をしているが、ここはまだみたい。


    楼門。楼門だってば。


    高倉殿。有名人のサインが入った檜皮(ひわだ)が飾られとった。


    末社・棚尾神社。櫛石窓神(くしいしまどのかみ)と豊石窓神(とよいしまどのかみ)を祀る。


    摂社・片山御子神社。玉依比売命を祀る。賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)の母親だ。


    摂社・須波神社。阿須波神(あすはのかみ)、波比祇神(あひぎのかみ)、生井神(いくいのかみ)、福井神(さくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)を祀る。


    岩本社。底筒男神、中筒男神、表筒男神を祀る。


    摂社・賀茂山口神社。沢田社とも。御歳神(みとしのかみ)を祀る。改装中のため、右隣にチョコンと仮のお社があった。


    二葉姫稲荷神社。

    二葉姫稲荷神社の周りにあったお社。左が八嶋龍神社。右が御影龍神社。


    葉姫稲荷神社の周りにあったお社。左が金比羅大権現、右が天之斑駒神社。


    摂社・奈良神社。

他にも境内の外にも摂末社があるが、やめたw。
それにしても、今年だけでどんだけお社回っているんだ?想像もつかん。