音の運動会@神戸国際会議場

近年、大友良英氏は、神戸で知的障害者(どうしても精神薄弱者とか知恵遅れという言葉が先行するので(NHKのニュースですら「知恵遅れ」という言葉はバンバンつかっていたんだよ!)この言葉は慣れない。)らとの即興演奏のワークショップに参加している。大友さん以外にも、森本アリさんや、江崎さん、バンジョー奏者の鈴木君など、ビッグアップルで見知りした方々が参加している。このワークショップのキュレーターもビッグアップルでの「先端音楽実験会」に参加してはった人だね。詳しいことはユリイカの増刊「総特集・大友良英」に掲載されている。そのワークショップに参加していた人等によるコンサート「音の運動会」が

日本特殊教育学会第45回大会
http://www.edu.hyogo-u.ac.jp/shogaiji/jase45kobe_top.html

上記のシンポジウムの一環で行われるというので行ってきた。間違えて神戸国際展示場に行って「おい、誰もいねぇそ!」というお約束もかましたせいで、最初の15分くらい見られず。俺が会場に入った時には、ジャンベやタムを叩く2人の子供に合わせて大友さんがシロフォンのマレットでタムをリムショットしていた。

会場には、所狭しと楽器が並べられていた。下手にはピアノ、テルミン。ステージ手前には、大小のシロフォンやグロッケン。ステージ奥には雑然と打楽器が転がっていて、奥にギターやシンセが置いてある。んで、上手に演奏者が座っていて、司会が指定した人に演奏をさせるスタイルであった。大抵は子供たち+ミュージシャンという形。

大友さんらが参加しているが、主役は子供たち。ミュージシャンは時に誘導したり制御したりもするが、奔放な演奏に身を任せたり傍観したり、だけどセッションらしくなるからおもしろい。

ふと思った。
何で知的障害者は違う目で見られるのか。他でもない。何しでかすかわからないと思っているからだ。もちろん知的障害者にも(単純ではあるが)意思決定は備わっていて、結局それに対しての意思疎通が上手くいかないだけの話なんだが、それをするのが面倒くさい人間は何しでかすかわからないと思って避けようとする。なんだ、オタクを見る目とかわんねぇじゃん!と思った俺はダメだなぁ…。

ともかく、その知的障害者の傍目から見て「何しでかすかわからん」感をそのまま音楽に還元してみたらどうなるか。意外と音楽センスを備わっていることに驚愕する事となったわけだ。それが全て感覚と自由意志による演奏である。日常生活からは完全に阻害されているが、非日常には受け皿がある。それを磨き続けていって欲しいです。健常者のインプットとアウトプットさせる場所は不可欠ですが。

コンサートを終え、シンポジウムも見ようかと思ったが、参加費が有料だったのでやめた。物販のコーナーを眺めてみたが、知的障害者やら身体障害者の教育について語り合ったり、障害者教育の本やら音楽療法の本などなどが物販されていた。障害者のドキュメント映画のビデオやDVDも売られていたが、なにもこれを流すことはないだろう…余計トラウマになるで(おいおい)。

今でこそ評価されているが、上映当時はクソミソだったろうなぁ。障害者を扱ったメディアはヒューマニズムを建前に単なるフリークス見本市なのは今昔問わず変わらないが、これは「わしゃフリークスじゃぁ!」と障害者自らがそう言い放って行動する映画だ(はだしのゲンにおける吉田政二みたいなもんだと思えばよい)。かなり露悪な部分もあるので、覚悟されよ。