播州方面をちょこちょこと


  1. 大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか):討ち入りの指導者だが、最初は仇討ちよりも、浅野家の再興を優先していた。だけど、元禄15年(1702年)7月18日(旧暦。以下同様)に、弟の浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)広島藩にお預かりになった瞬間に浅野家の再興は絶望的になってしまった。これで後は仇討ちしか選択肢がなくなり、元禄15年(1702年)7月28日に京都は円山で討ち入りを決意(以下、円山会議とする)。以降は…ご存知の通りですな。討ち入り時45歳。役職は国家老、1500石(譜代)。
    譜代っつーのは、何代にも亘って赤穂藩に仕えている家にもらえる位だ。
  2. 大石主悦良金(おおいしちからよしかね):内蔵助の息子。討ち入り時は最年少の16歳。部屋住み。
    部屋住みとは、特に役職はないんだけど、跡継ぎとして地位は確保されているので、今にすればなんにもせんと、のんべんだらりと生きられるニート的なもの…ともとれるが、実際はそういうわけでもなかったようで。これというサイトがないので「部屋住み」でググろう。働きたい盛りに何も出来んのは辛いでー。しかも、いつ当主になるかもわからんから、ニート状態にもなれない。ま、当時の武士にニートになる気などそぞろになかったろうし、中にはとっとと武士見限って町人になる人もいたそうで。今回の討ち入りメンバーにも部屋住みは結構いたりする。
  3. 堀部弥兵衛金丸(ほりべやへいかねまる):元禄14年(1701年)3月14日浅野内匠頭吉良上野介への刃傷沙汰を起こし、即日切腹させられた頃(以下、切腹時とする。)に江戸にいて、元禄14年(1701年)4月19日の赤穂城明け渡し後(以下、開城後とする)から、仇討ちを画策し出した同志(以下江戸急進派とする)の中心人物で、討ち入り時は最年長77歳。安兵衛の義理の父親。槍の名手だったと。前役職は江戸留守居で、かつては300石もらっていたが、討ち入り時は隠居料20石(譜代)だった。
  4. 堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえたけつね)堀部弥兵衛と共に江戸急進派の中心核で、実質的なリーダー。忠臣蔵では大立ち回りしておりますな。討ち入り時34歳。役職は馬廻、200石。
  5. 奥田孫太夫重盛(おくだまごだゆうしげもり):最初は兵右衛門(へいえもん)だった。江戸急進派のひとり。討ち入り時57歳。役職は武具奉行・江戸定府、150石(新参)。
  6. 奥田貞右衛門行高(おくださだえもんゆきたか)奥田孫太夫の婿養子で、近松勘六の腹違いの弟。江戸急進派のひとり。討ち入り時26歳。部屋住み。
  7. 倉橋伝助武幸(くらはしでんすけたけゆき)浅野内匠頭の参勤交代のメンバーだったので、切腹時は、江戸にいた。そしてそのまま江戸急進派になる。討ち入り時34歳。役職は扶持奉行・中小姓、20石5人扶持(二代)
  8. 勝田新左衛門武尭(かつたしんざえもんかつたか)切腹時は赤穂にいたが、開城後江戸に下り、江戸急進派になる。討ち入り時24歳。役職は札座横目、15石3人扶持(譜代)
  9. 杉野十平次次房(すぎのじゅうへいじつぎふさ):開城後すぐに江戸にくだり、江戸急進派に。母方の萩原家が、四十七士の中では随一の資産家だったので、資金面で色々援助していた様子。吉良邸の裏門扉を木槌で壊す役割を果たした。討ち入り時28歳。役職は札座横目、8両3人扶持(二代)。
  10. 矢田五郎右衛門助武(やだごろうえもんすけたけ):江戸急進派のひとり。討ち入り時29歳。役職は馬廻・江戸定府、150石(二代)
    あと、江戸急進派には高田郡兵衛(たかだぐんべえ)なる人物もいたが、元禄14年(1701年)12月、真っ先に脱盟して、江戸急進派から大顰蹙を買ってしまう。討ち入り後、吉良上野介の首を持って、泉岳寺にある浅野内匠頭の墓に赴いた赤穂浪士たちに祝い酒を持っていって、おもくそ断られるというKY(死語か?)っぷりを見せたりする。その後、後を追って自害したという説もあるが、不明。
  11. 片岡源五右衛門高房(かたおかげんごえもんたかふさ)忠臣蔵では、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)と最期の別れをする場面でおなじみだが、実際はそうだったかわからんのだと。浅野内匠頭の遺体を泉岳寺に葬った人でもある。江戸急進派と最初は折り合いがつかず、別に仇討ちを計画していたが(以下、初期メンバーB組とする。)結局江戸急進派と合流。討ち入り時37歳。役職は側用人・児小姓頭、350石(譜代)。
  12. 磯貝十郎左衛門正久(いそがいじゅうろうざえもんまさひさ):浅野内匠頭の遺体を泉岳寺に葬った際に同行していた。初期メンバーB組である。討ち入り時25歳。役職は物頭・側用人、150石(新参)。
    ちなみに、B組には田中貞四郎(たなかさだしろう)なる人物もいたが、酒と女に溺れて身を崩したあげく、討ち入り1ヶ月前に逐電(逃げだして行方不明になるって意味)してしまう。
  13. 早水藤左衛門満尭(はやみとうざえもんみつあき)大石内蔵助浅野内匠頭切腹したという第一報を伝えたとされる。弓の名手でもあった。討ち入り時40歳。役職は馬廻、150石(二代)。
    ちなみに第一報を伝えた際には、萱野三平重実(かやのさんぺいしげさね)も同行していて、彼も討ち入りを決意していたが、父親に吉良家とつながりの深い家の仕官になるように命ぜられてしまい、ジレンマの末に元禄15年(1702年)1月14日自害する。
  14. 原惣右衛門元辰(はさそうえもんもととき)大石内蔵助浅野内匠頭切腹した旨を伝えた第二の使者とされる。元禄14年(1701年)9月に江戸急進派に討ち入りをやめるように説得したが(第一期説得組としておく)、結局丸め込まれちゃった人。討ち入り時56歳。役職は足軽頭、300石(新参)。
  15. 大石瀬左衛門信清(おおいしせざえもんのぶきよ):その第二の使者として、原惣右衛門と同行していた人。通称ははじめ源蔵(げんぞう)だった。大石内蔵助とは遠い親戚にあたる(信清の祖父の兄の曾孫が内蔵助)。討ち入り時27歳。役職は馬廻、150石(譜代)
  16. 潮田又之丞高教(うしおだまたのじょうたかのり)原惣右衛門とともに、第一期説得組の一人。やっぱり丸め込まれちゃう。討ち入り後の引き揚げで、吉良上野介の首級(くびしるし)を槍に掲げてた人。討ち入り時35歳。役職は郡奉行、絵図奉行、200石(譜代)。
  17. 大高源五忠雄(おおたかげんごただお):第一期説得組の一人。円山会議後に仇討ちの意思の有無を再確認する為(神文返しとも言われる)に、同志のところに回ったとされている。また、俳諧や茶を嗜み、ある茶人を通じて、12月14日に吉良屋敷で茶会があることを突きとめる、討ち入りの日程を決めるのに貢献した人。討ち入り時38歳。役職は金奉行・膳番元方・腰物方、20石5人扶持。
  18. 貝賀弥左衛門友信(かいがやざえもんとものぶ)大高源五と共に、円山会議後、仇討ちの意思表示を確認すべく、同志の元を回った。当初は120人程いたが、最終的に残ったのは討ち入りした46人+田中貞四郎であった…。討ち入り時54歳。役職は中小姓・蔵奉行、10両3人扶持(新参)。
  19. 中村勘助正辰(なかむらかんすけまさとき)切腹時は赤穂にいて、赤穂城明け渡し後の残務整理など行う。第一期説得組の一人。討ち入り時46歳。役職は書物役、100石(譜代)。
    ちなみに、第一期説得組には、進藤源四郎俊式(しんどうげんしろうとしとも)という人物もいたが、浅野家再興が絶望的になってからは、モチベーションをなくし、円山会議にも参加せず、仇討ちのメンバーから外れる。
  20. 吉田忠左衛門兼亮(よしだちゅうざえもんかねすけ):実質上、大石内蔵助のブレーンとして、同士と円滑なやりとりを促したり、開城後に京都にいた大石内蔵助に江戸の情報を流す役目を司っていた。元禄15年(1701年)2月に江戸急進派に討ち入りをやめるように説得したりしていたが(第二期説得組とする)、丸山会議以降は、本格的に仇討ちに協力するようになる。討ち入り時64歳。役職は足軽頭・郡奉行、200石役料50石(譜代)。
  21. 吉田沢右衛門兼貞(よしだかねうえもんかねさだ)吉田忠左衛門の長男。討ち入り時29歳。部屋住み
  22. 近松勘六行重(ちかまつかんろくゆきしげ)吉田忠左衛門とともに、第二期説得組と、京都への情報伝達を司った。赤穂浪士で唯一重傷者ともいわれている。討ち入り時34歳。役職は馬廻、250石(譜代)。
  23. 間瀬久太夫正明(まぜきゅうだゆうまさあき):赤穂にいた時より、仇討ちを勧めていた人。その後息子の間瀬孫九郎の後を追い、江戸に下る。討ち入り時63歳。役職は大目付、200石役料50石(二代)。
  24. 間瀬孫九郎正辰(ませまごくろうまさとき):前述した間瀬久太夫の息子。討ち入り時23歳。部屋住み
  25. 赤埴源蔵重賢(あかばねげんぞうしげかた):初期メンバー同様に切腹時に江戸にいて、かねてから仇討ちは画策していたが、初期メンバーとは別に個人で行動していた。討ち入り時35歳。役職は馬廻、200石(譜代)。
  26. 富森助右衛門正因(とみもりすけえもんまさより):幼い頃より、浅野内匠頭に使えていた人。討入りの際に、討ち入り直前の元禄15年(1702年)11月より大石内蔵助を自分の家に泊めていたとも言われている。討ち入り時34歳。役職は馬廻・使番、200石(二代)。
  27. 不和数右衛門正種(ふわかずえもんまさたね)浅野内匠頭によって、赤穂藩から浪人していたのだが、本人たっての願いと、吉田忠左衛門のはからいで同士の一員になる。討入りでは、一番人を斬ったとされている。討ち入り時34歳。浪人前の役職は馬廻・浜奉行で、100石(譜代)もらっていた。
  28. 岡野金右衛門包秀(おかのきんえもんかねひで):当初は彼の父である岡野金右衛門包住(おかのきんえもんかねずみ)が討入りをする予定だったが、病に倒れ(後に死去)その遺志を引き継いだ。前原伊助の店に住み込みで働き、忠臣蔵ではイケメンという設定になって、吉良家お抱えの大工の娘をたぶらかして吉良邸の間取り図をゲットするシーンを見たことある人も多いだろう。史実は全然違うけど。討ち入り時24歳。部屋住み
  29. 前原伊助宗房(まえはらいすけむねふさ):初期メンバー。米屋五兵衛と称して呉服商人に成りすまし、吉良邸の内部に入ったりしていた。忠臣蔵では、吉良邸を探っていたのがバレて、袋叩きに遭うのはお約束である。討ち入り時40歳。役職は金奉行・中小姓、10石3人扶持(二代)。
  30. 小野寺十内秀和(おのでらじゅうないひでかず)岡野金右衛門包秀の叔父。赤穂開城〜京都と、浅野家再興を優先していた大石内蔵助について行動していた。元禄15年(1702年)10月江戸に下り、大石主税の家に滞在する。討ち入り時61歳。役職は京都留守居番、150石役料70石(譜代)。
  31. 小野寺幸右衛門秀富(おのでらさわえもんひでとみ):小野寺十内の養子。元禄15年(1702年)9月に大石主税の指示で江戸に下り、中村勘助の家に滞在する。討ち入りでは真っ先に吉良家の人間を斬り捨てたそうな。討ち入り時28歳。部屋住み
  32. 木村岡右衛門貞行(きむらおかえもんさだゆき)切腹時は赤穂にいて、赤穂城明け渡しの残務整理後、仇討ちに加担することを決意。元禄15年(1702年)9月25日に江戸に下り、堀部安兵衛の家にいた。役職は馬廻・絵図奉行、150石(譜代)。
  33. 間喜兵衛光延(はざまきへいみつのぶ)切腹時には赤穂にいて、早い時期に大石内蔵助に義盟を誓っていた。討ち入り時69歳にして、槍で吉良家の人間を殺ったとも言われる。役職は勝手方吟味役、100石(二代)。
  34. 間十次郎重興(はざまとうじろうみつおき)間喜兵衛の妾の子。武芸に長けていて、討ち入りでは活躍したそうな。炭小屋に隠れていた吉良上野介に一番槍をつけ(次に竹林唯七がとどめを刺した)、首を刎ねたとされる。討ち入り時26歳。部屋住み。
  35. 竹林唯七隆重(たけばやしただしちたかしげ):祖父が明軍の兵士で(後に帰化)、実質中国人のクォーターである。吉良上野介間十次郎が一番槍をつけ、彼がとどめを刺したと言われている。討ち入り時32歳。役職は馬廻、15両3人扶持(二代)。
  36. 間新六郎光風(はざましんろくろうみつかぜ)間喜兵衛の子であり、間十次郎の弟。彼らについて大石内蔵助に義盟を誓う。赤穂浪士寺坂吉右衛門を除いて、討ち入り後にみな切腹し、亡骸は浅野内匠頭の眠る泉岳寺に葬られているのは有名だが、彼の亡骸だけ唯一泉岳寺に葬られていない。義兄である中堂又助に引き取られ、築地本願寺に葬られたからだ。討ち入り時24歳。浪人していたので、役職はなし。
  37. 千馬三郎兵衛光忠(せんばさぶろべえみつただ):もとより直情的な性格で、浅野内匠頭に直言するなどするもんだから、彼とも仲が悪かった。浅野家から離れて、浪人になりたい旨を提出していたが、受理する前に浅野内匠頭切腹してしまう。大石内蔵助に対してはどう思っていたか不明だが、忠誠は誓っていた模様。討ち入り時51歳。役職は馬廻、100石(二代)。
  38. 菅谷半之丞政利(すがやはんのじょうまさとし):詳細はよくわからない。元禄15年(1702年)10月7日に大石内蔵助にお供して江戸へ下向した位しか。討ち入り時44歳。役職は馬廻郡代、100石(譜代)。
  39. 村松喜兵衛秀直(むらまつきへえひでなお)切腹時は江戸にいたが、すぐに赤穂に向かって義盟を誓い、また江戸に戻る。医者になりすまして吉良家の動向を見ていた。討ち入り時62歳。役職は扶持奉行・江戸定府、20石5人扶持(二代)。
  40. 村松三太夫高直(むらまつさんだゆうたかなお)村松喜兵衛の長男。しばらくは父と同行していた。討ち入り時27歳。部屋入り。
    どうやら、「誰々の息子」とか言うのは大抵「部屋入り」なのね。
  41. 矢頭右衛門七教兼(やとうえもしちのりかね)岡野金右衛門包秀同様、当初は父親である矢頭長助教照(やとうちょうすけのりてる)が討ち入りメンバーだったが、病に付して死去。残された家族は男は自分だけで、他の家族の身を案じていたが、討ち入り後、母親の実家である奥州白河藩に迎えられた。討ち入り時17歳と、大石主税に次いで若い。部屋住み(譜代)。
  42. 三村次郎左衛門包常(みうらじろうざえもんかねつね)切腹時は赤穂にいた。足軽だった寺坂吉右衛門を除いて、みな藩士(浪人、部屋住み含む)であった四十七士の中で、最も身分が低いこともあって、基本的にパシリ(同志たちの間の連絡役)だった。杉野十平次とともに、吉良邸の裏門を木槌で壊す役割を果たした。討ち入り時37歳。役職は台所奉行・酒奉行、7石2人扶持(二代)。
  43. 神崎与五郎則休(かんざきよごろうのりやす):病に伏せていた岡島八十右衛門の代わりに元禄15年(1702年)4月江戸に下る。しばらくしてから前原伊助と合流して「小豆屋善兵衛」と称して吉良邸を探索する。討ち入り時38歳。役職は徒目付、5両3人扶持(新参)。
  44. 岡嶋八十右衛門常樹(おかじまやそえもんつねしげ)原惣右衛門の弟。切腹時、赤穂にいて、赤穂城の事務処理をこなす。早い時期から義盟を誓っていたが、元禄14年(1701年)8月に病に伏してしまい、江戸に下ったのが元禄15年(1702年)10月であった。討ち入り時38歳。役職は徒目付、5両3人扶持(新参)。
  45. 横川勘平宗利(よこかわかんぺいむねとし):開城後、江戸に渡る。円山会議後に、江戸にいる同士への討ち入りの意思確認をとった人。討ち入り時37歳。役職は徒目付、5両3人扶持(新参)。
  46. 茅野和助常成(かやのわすけつねなり):武術に長けていて、吉良邸では弓で応戦していた。ちなみに、萱野三平とはなんら関係はない。討ち入り時37歳。役職は横目付、5両3人扶持(新参)。
  47. 寺坂吉右衛門信行(てらさかきちえもんのぶゆき)吉田忠左衛門の下で働く、四十七士唯一の足軽。討ち入り後、泉岳寺浅野内匠頭の墓前にいなかった。討ち入り直前に逃亡したとも、大石内蔵助が逃がしたとも言われているが、真相は不明。大目付仙石久尚(せんごくひさなお)の決定により唯一切腹しなかった人物で、いくつかの家に仕えた後、83歳まで生きる(討ち入り時39歳)。死後、泉岳寺の四十七士の墓に入る。

明治天皇が弔ったと言うことで、神社になったという。

本殿となりの摂社。左より山鹿社、天満宮、八田社、恵比寿社、国助稲荷、淡島社、忠魂社が祀られている。



  • 広峯神社(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:広峯神社参照。):神仏霊場巡拝の道・第七十四番(兵庫九番)札所。主に祀られているのは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と、五十猛命(いそたけるのみこと)。五十猛命林業の神様なんだと。他にも摂社がいろいろある。


    軍殿八幡社。祀られているのは応神天皇神功皇后


    右が庚申社。祀られているのは猿田彦命(さるたひこのみこと)と、天うずめ。左が山王権現社。祀られているのは金山毘古神(かなやまひこのかみ)。鉱山、金属の神様とされる。


    天神社。祀られているのは菅原道真


    大鬼社(おおかみやしろ)。祀られているのは伊弉諾尊イザナギである。


    冠者殿社。祀られているのは、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、高皇産霊神(たかむすびのかみ)、木花咲哉姫神(このはなのさくやびめ)。縁結びや安産の神様たちである。


    熊野権現社。祀られているのは菊理姫命(くくりひめのかみ)、速玉男命(はやたまおのみこと)、瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)。


    荒神社。祀られているのは素戔嗚尊だけど、こっちは荒魂なんだろう。


    吉備神社。祀られているのは吉備眞備。菅原道真と共に学問の神様として崇められている。現在は解体修理中で、となりに仮のほこらが祀ってあった。


    地養社。祀られているのは蘇民将来


    蛭子社。祀られているのは、蛭子神

うちにもこの神社のお札を祀っているのだが、毎年村でまとめて購入するので、ご朱印だけにした。