まだ頭痛いが

ノーシン飲んだら、少しましになる。家にいるのもなんだし、ご朱印集めに行く。バカか、俺。

  • 達身寺(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:達身寺参照):西国薬師四十九霊場・第二十五番札所。山号は「十九山(じゅうくさん)」。本尊は阿弥陀如来明智光秀によって一度焼き討ちされただの、仏像が大量にあるのも、この寺が仏師(仏像を作る人に事ね)養成所だったとも言われているが、詳細は謎に包まれている。ここに安置してある仏像のお腹は全て膨らんでいるのも理由は不明。珍しいので、見る価値はあると思う。





  • 天寧寺西国薬師四十九霊場・第二十七番札所。山号は「紫金山」本尊は薬師如来だ。オフィシャルサイトどころか、wikipediaにも掲載されていない状態なので、せめてもらったパンフの文章を引用するべか。

臨済宗妙心寺派 紫金山天寧寺の概略
天寧寺は、もとは禅宗二十四流の一派愚中派の本山として栄えた。
開山愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)は元亨3年(1323年)美濃の国に生まれ、7歳のとき寺に入って儒仏の二教を修め、13歳にして京に上り、夢窓疎石(ゆめまどそせき)の門に入る。19歳の時、天竜寺船に乗って中国(元)に渡った留学の僧である。
愚中は揚子江中流鎮江の金山寺、即休契了(しっきゅうけいりょう)の下で己事を究明し、師より第一の弟子と認められ、法嗣((ほうし:師の教えを継いだ人の事。))の証として与えられた頂相(ちんそう・即休の肖像画)には「わが教えを理解したものは広い中国には一人もいない、日本から来た愚中ただ一人である」と記されている。
帰朝後は各地で禅を広めるが、丹波金山地頭、大中臣宗泰(おおなかおみむねやす)の建立した天寧寺の開山となり、山号を修行の地に因み紫金山とし、前に流れる渓流を揚子江と名付け、ひたすらこの僻地で名利を捨てて修道の工夫を凝らそうとした。その後紀州、安芸と遊化*1。四代将軍足利義持公の帰依を受け「顕山」の法号を授ける。応永16年(1409年)8月25日天寧寺に於いて示寂*2。小松天皇により仏徳大通禅師の諡号*3を賜り、又、義持公は応永27年天寧寺を祈願寺とした。
この時代には、36ヶ寺の末寺を持つ本山として豪壮な堂宇*4の立ち並ぶ大寺院であった。それは広大なる境内や山門にかかる義持公の額によって偲ばれる。
室町時代を過ぎると、金山氏は没落し、天寧寺も衰微していくが、官営12年(1635年)萬休慧重(ばんきゅうえちょう)が妙心寺より入寺、以後妙心寺派に属して再興される。
その後、安永6年、昭和36年と二度の火災に遭うが、再建して今日に到る。
現在は自然林を背景に、静寂なる風致を生かして座禅研修道場での座禅会又、西国薬師霊場第二十七番、丹波古刹霊場第十四番札所として心の安らぎの場となっている。

*1:ゆけ:僧が諸国を回って教えを説くこと。

*2:じじゃく:菩薩や高僧が亡くなること

*3:しごう:亡くなってから、その人の実績を称えて付ける名前の事。

*4:どうう:堂の軒。まぁ、よーするに寺の中の建物の事だわ。