新西国まで始めてしまった。

摂津国三十三箇所と摂津国八十八箇所が全然進んでいないにもかかわらず。
新西国三十三箇所を始めてしまった。
いや、久しぶりに伽耶院(がやいん)に行って、御朱印もらおうと思ったら、そこが新西国三十三箇所・二十六番札所だったもんでなぁ。やってみようと思ったわけだ。札所眺めたら、以前他の札所めぐりで訪れた寺が散見できたりする。

  • 伽耶(オフィシャルサイトはブログしかないので、wikipedia:伽耶院新西国のオフィシャルサイト参照。):新西国三十三箇所・二十六番札所。山号を含めた正式名称は「大谷山大谿寺伽耶院(おおたにさんだいけいじがやいん)」本尊は毘沙門天
    寺伝では孝徳天皇勅願寺として、大化元年(645年)に法道仙人が開基したとされる。それから大谷山大谿寺東一坊と称していたが、天和元年(1681年)に後西上皇の勅により伽耶院と改めた。
    平安時代中期には数十の堂宇と百三十余の坊舎を持つ大伽藍で、花山法皇行幸なされたと記されるが、安土桃山時代羽柴秀吉の三木城攻めに巻き込まれ、さらに慶弔14年(1609年)の火事によりなにもかも焼失してしまう。現存する堂塔は1610年以降の諸国大名の寄進によるものである。
    中世の頃には、聖護院の五院家(若王子、住心院、積善院、華台院、そして伽耶院)の一つになり、修験道界隈では絶大な権力を誇る修験道場でもあった。その名残は毎年体育の日に行われる「採燈大護摩」として伝えられて、当日は200名近い山伏で埋まるそうな。


    二天門。慶安4年(1651年)に建てられた。


    入山料は一人につき草ひき10本という妙な(笑)システム。ひいた草はどこで処分すればいいのだろう?とりあえず、山に捨てた。


    多宝塔。


    三坂社。鎮守社らしい。本堂、多宝塔と並び重要文化財に指定されている。


    臼稲荷。基礎が臼で出来ている。なんでもある干ばつの年に、水をせき止めていた石臼(このあたりではかつて田んぼに水を溜める為に古い石臼で水路を塞いでいたのだ)を白衣の老人に扮した狐が全て取っ払って水を均等にしたという。そのことから石臼を奉納するようになった。確かにどういうわけか石臼を取り込んだ楓の木もある。


    開山堂


    行者堂。


    なんか十三塔。


    納経所の裏手にある、水子地蔵たち。一乗寺の賽の河原と言い、子供の霊が絡むと、鬱蒼とした雰囲気を醸し出そうとする意図を感じる。子供は大事に。