岐阜だ。
前回行ったときには満願札所として最後に行くつもりだったが、予定変更。
- 谷汲山華厳寺:西国三十三箇所・第三十三番札所。山号は谷汲山で、本尊は十一面観音。
延暦十七年(798)、奥州会津の豪族、大口大領が創建したと言われる。兼ねてから信仰している十一面観音の像を作りたかった大領は、苦行などを経て霊木を手に入れ、京の都で十一面観音像を彫ってもらった。
喜び勇んで会津に帰る途中、美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)にさしかかった時、観音像は突然会津に行かないと言い出した。んで、観音像の指し示したのが現在の華厳寺の場所であった。大領はこの地に庵を結び、それから豊然上人が近くに住んでいたので、大領は上人と協力し堂宇を建てて尊像を安置した。これが華厳寺の始まり。
さらに、華厳寺を建てた直後にお堂の近くの岩から油が湧き出して、灯篭の火を常に点けることができるようになったというおまけも付いたw。
その後、桓武天皇の勅願寺になり、醍醐天皇より「谷汲山」の山号と華厳寺の扁額を賜る。天慶七年(944)、朱雀天皇によって、鎮護国家の道場として勅願寺に定められ、仏具・福田として一万五千石を賜り、名実ともに立派な寺になったわけだ。
オフィシャルサイトから引用すると「西国巡礼中興の祖とされる花山法皇(968-1008)は西国三十三箇所の霊場を御徒歩で御巡幸あらせられ、当山を第三十三番札所の満願所と定められ、御禅衣(笈摺)、御杖、及び三首の御詠歌を奉納せられました。」と、書いてある。実は西国三十三箇所は順番が統一されていなくて、三十三番札所が三室戸寺だったり、一番札所が長谷寺だったりしたのだ。今の順番が確立されたのは、後鳥羽上皇や後白河法皇が花山法皇の辿った順番を巡った事がきっかけである。
鎌倉幕府滅亡後は幾度となく戦渦に巻き込まれて荒廃したが、文明十一年(1479)に、薩摩から慈眼寺住職道破拾穀(どうはじっこく)上人がやってきて再興した。
最初は大垣駅から樽見鉄道で行こうと思ったが、時刻表見たらかなり長い時間待たされそうなので、車で行くことに。
車でブロローっと走らせて数十分で着いた。これは仁王門。この間近にある富岡屋で満願そばを食う。満願してねぇのにw。味は、観光地ですから、可もなく不可もなく…。
山門をくぐって、テケテケ歩く。
地蔵堂。池の真ん中に地蔵堂があるのは珍しい…か?
一乗院は門が閉まっていた。
法輪院。
十王堂と、右隣にあった地蔵菩薩。
羅漢堂。解体修理終えた直後でピッカピカ。この隣りに地蔵堂があるはずなんだが…ない。山門くぐった案内の看板のいい加減さ!
明王院。ここも納経所がピッカピカ。豊川稲荷から分祀した吒枳尼天が祀られている。
手水場。
一切経蔵。ピンボケですまん。他のブログ見たら、山とお経が積まれた内部が写されていたが、俺が行ったときは閉まってた。
英霊堂。ここも内部が拝観できるようだが、やはり俺が行ったときには閉まっていた…。
三十三所堂。西国の観音がおさめられているのかしら。
三十三所堂向かいにある、聖観音像と勢至菩薩像。
んで、奥には大師堂がある。
大師堂。
内仏客殿。
庫裡。
やっとこさ、本堂に辿り着いた。これは鐘楼。この上の階段登ったところに阿弥陀堂があるが、行くの忘れた。
満願堂。華厳寺は御朱印が3つあって、本堂は現在を表している。んで、ここ満願堂は過去を現しているそうだ。あと、やたら狸の石像が多かった。写真に納めていないが、日光東照宮でおなじみの「見ざる言わざる聞かざる」の狸ヴァージョンもあった。
裏山から見た本堂
本堂の裏山にあった謎のお堂。地蔵さんがあると言うことは、地蔵院がここに移ったのだろうか?
これまた謎の建物。中を覗いたら、お経が山のように積まれていた
子安堂。
笈摺(おいずる)堂。ここの御朱印は未来を表しているそうだ。笈摺というのは、白いちゃんちゃんこみたいなやつでな。四国八十八ヶ所用白衣(背文字入り)<袖無し>簡易ポケット付き笈摺(おいづる)とも呼ばれる袖の無い白衣[お遍路グッズ][お遍路用品]
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これにご朱印を押してもらうんだ。んで、満願になったら、花山法皇がやったように、ここに収めるというのが慣わしなんだが(別に後生大事に持っていてもおk)、笈摺だけでなく、納経帳や杖、いつしか千羽鶴なんかも収めるようになったと。
苔の水地蔵尊。悪いところに水でぬらしたお札を貼るのだ。
本堂の廊下には、こんな感じで祠が点在してるんだ。全部見て回れなかった。
まぁ、とにかく広かったこと。そして遠かったこと。奥の院は次回に回す。