茨木で献血ついでに総持寺。

わしゃ、献血も趣味の一つなんだが、近畿圏内の献血ルームを一通り回っている最中である。兵庫県奈良県は制覇して、大阪府内の献血ルームを攻略している最中で、今日は茨木市にやってきたのだ。で、首尾よく成分献血を終えて、ついでだから、総持寺に行って見ましょうと。

  • 総持寺西国三十三箇所・第二十二番札所。山号は「補陀洛山 (ふだらくさん)」で、本尊は千手観音。堂宇は前回行ったときに一通り撮ったので、そちら参照
    歴史。寺伝「総持寺縁起絵巻」によると、開基は藤原山蔭である。話は山蔭の幼少時まで遡る。
    山蔭の父である藤原高房太宰府に赴任するため、家族と移動していた途中、漁師達が一匹の大亀を捕らえていたのを見て、今日は十八日で観音様の縁日だからと、その亀を助けてあげた。
    その夜、継母の謀略で、山蔭は川に落とされてしまう。悲嘆にくれた高房。かねてより信仰していた観音様に祈ったところ、しばらくして、先頃助けた亀が恩返しとして山蔭を背中に乗せて再び戻ってきたと言う伝説がある。

    大宰府についてから、高房は観音様に報恩するべく、観音像を造ろうと思いたった。そこで遣唐使に依頼して香木を探してもらうが、その木は輸出禁止品だった。やむなく、『高房卿の求めに応じて海を渡す』と刻んで海に流した。
    月日は流れ、息子の山蔭が成長し、父と同様に太宰府に赴任していた。あるとき、海辺を歩いていたら、一本の香木が流れ着いた。それがさっきの香木だったという何と言う運命のいたずら!驚きと歓喜に包まれ、父高房卿の遺志継続を決心するのであった。

    都に戻った山蔭は観音を彫ってくれる仏師を探すことになる。なかなか御眼鏡にかなうのが現れず、長谷寺に行きいい仏師が見つかるように祈念した。その後観音様のお告げで童子が現れ、都に連れて行ったのち、童子は千日かけて(その間、一切面会謝絶して、山蔭に食事を作らせた)亀に乗った千手観音を刻んだという。

    そして元慶3年(879年)頃に、山蔭が創建を開始し、山蔭の三回忌の寛平2年(890年)2月4日に伽藍が完成した。絵巻のそれを見たら、かつては三重塔や多宝塔などもあって広い伽藍であった。

    茨木市のサイト見たら、一条天皇などの勅願寺にもなったが、元亀2年(1571年)の白井河原の合戦のとき、織田信長の焼き討ちに遭う。本尊の下半身が焼け焦げているのは焼き討ちの痕跡で、本尊自ら走って逃げたとか何とか。それ以降も、火事や天災に見舞われたが、現在の本堂になったのは、慶長8年(1603年)。豊臣秀頼の命で、片桐且元(かたぎりかつもと)が再建したものだ。


    堂宇は前回来たときにほとんど撮ってしまったので、なんか他のものを撮るか。とりあえず山門。


    前回撮ってなかった東門。


    これも前回撮ってなかった。本堂と本坊を繋ぐ渡り廊下。唐門風なのはなぜだろう。