なら、奈良なら。

タイトルに意味はない。

  • 飛鳥寺(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:飛鳥寺参照。):新西国三十三箇所・第九番札所。山号を含めた正式名称は「鳥形山 安居院(とりがたやま あんこういん)」。


    本尊は、釈迦如来(あ、本堂内は飛鳥大仏は撮影OKです。)。飛鳥大仏の通称でも知られ、推古天皇13年(605年)に造られた、日本最古の銅造の大仏である。

    歴史を。四天王寺と並んで、日本に仏教が伝来したての黎明期から存在するお寺であり、6世紀頃(用明天皇2年(587年)とされている)に蘇我馬子が建立を発願。最初は「法興寺」という名前だった。聖徳太子とは、共に物部守屋を滅ぼしたり、娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を嫁がせたりとつながりが深く、蘇我氏宗家が滅亡しても、寺が取り潰されることもなく、崇敬を受けていた。
    710年の平城遷都にあわせて、「元興寺」(がんこうじ)と改称し、奈良に移転。従来の寺は「本元興寺」として残し、伽藍を築くのである(下の画像はその復元図)。


    しかし、建久7年(1196年)に雷火で塔と金堂を焼失してからは、思いっきり廃れた。室町時代のころは、本尊は雨ざらしだったし、江戸時代でも仮堂が一宇があるくらいだったという。現在の本堂は江戸末期の文政8年(1825年)に大坂の篤志家の援助で再建されたものである。


    観音堂。ここに新西国札所本尊の聖観音が納められとる。

    地蔵堂と鐘楼。主だった堂宇はこれしかない。かつての伽藍は周辺の遺跡でしか、その栄華を垣間見ることが出来ない…。


    飛鳥寺から数十メートル離れた場所にポツンと佇む、蘇我入鹿首塚。周りに石垣もないくらいのぞんざいさが、隆盛の侘しさに輪をかける。飛鳥の地に吹く寒風は雲を散らし、霧に消さんとするが如く、わが心を空しく通り過ぎて行く…週刊文春みたいな文章ってなかなか書けないわねぇ()。

  • 橘寺(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:橘寺参照。)::新西国三十三箇所・第九番札所。山号は仏頭山で、本尊は聖徳太子如意輪観音
    創建時期は不明だが、発掘調査で7世紀前半頃に建てられた金堂らしき跡が発見されたそうだ。聖徳太子がこの地で勝鬘経(しょうまんきょう)唱えたら、瑞祥(ずいしょう:めでたいことって意味)があって、それを機にお堂を建立したのだと。
    建立当時は、東から正門、中門、塔、本堂、講堂と一直線に並んでいたことも発掘調査でわかっている。なので、この寺の本堂は東を向いている。当時としては、東向きの寺とは珍しかったそうな。
    聖徳太子絡みの寺だから、かつては大伽藍で法隆寺にある玉虫厨子がこの寺にあったそうだが、天災や戦渦に巻き込まれて、江戸時代には講堂と本尊くらいしかなくなっていた。現在の堂は、1864年に再建されたものだ。


    西門


    手水場。


    護摩堂。


    観音堂


    講堂。

で、西国も回ったよ。第七番の岡寺、第六番の壷坂寺、第八番の長谷寺、番外の法起院とね。写真あんまり撮ってない。手抜きだ!とりあえず、目に付いたものを撮った。

岡寺はちゃんと取ったw。この時期は内陣に入れない。

壷坂寺では、講堂が開いていて、寺宝を公開していた。

あ、お社があったのか。初めて気付く。扁額が読めなかったので、調べたら、龍歳宮とのこと。左手にあるお社は鎮守社らしい。何を祀っているのだろう。

長谷寺もちゃんと撮ったぞ。なんか護摩行(?)やっとった。びんずるさんは漆が新しくってピッカピカ。

奥の院に行った事がないので行ってみることに。

ごっつ狭い山道を走らされて、着いたのが奥の院である瀧蔵神社。長谷寺に行ったら、ここにもお参りしないと効果が半減するぞ、とまで言われていたという。
…その割にはこじんまりとしたお社がひっそりと佇んでいる。さらに、雨が激しくなり、より侘しい空気が漂っている…俺以外、誰もいなかったし…。