札所巡りの結果報告。

御朱印集めにはまってから14年。
そこから札所巡りにはまり、その元祖である西国三十三所を11回満願し、特任先達になった。
それらを総まとめしたリストをアップした。

西国巡礼の発願日と満願日
drive.google.com

それ以外の札所巡りの発願日と満願日
drive.google.com

まとめたPDFファイルをGoogledriveにアップした。

HTMLでtable用いたいが、レイアウトがめちゃくちゃになったし、スマホ対応が絶望的と判断し、PDFによるダウンロードに切り替えた。

ぜぜぜぜ善光寺


去年、西国薬師四十九霊場、近畿三十六不動霊場、神仏霊場巡拝の道を満願したので、お礼参りに、善光寺の朝のお勤めに行こう!と思っていたのだ。しかし、長野は雪だと言うでないか!長野市内なら大丈夫だろうと思い、決行。
長野までは高速で6時間ほど。松本や塩尻あたりでABCラジオが入るのに驚いた。
いろいろあったのですが…昼間に行ったほうがいいな、と。
写真はうまく撮れないわ、お勤めで寝てしまうという失態を演じてしまったし…。

満願の証が届く。


メール便にて、届く。
足掛け4年近くかけて巡礼し、先日神仏霊場巡拝の道を満願したのだが、その場で満願の証をもらえなんだ上に、神社職員の態度にも不満を感じた。事務局の東大寺にその旨を連絡し、18日にFAXが届いた。その件に関する謝罪の文章が満願の証の申し込み証とともに。さくさくと書き込んで、返信。
そして、本日、メール便にて、届いたわけだ。

…やっぱり、その場でもらいたかったなぁ…

満願したどー!

神仏霊場もあと4箇所で満願になる。

  • 金剛輪寺:神仏霊場巡拝の道・第百三十五番(滋賀三番)札所。山号は松峯山(しょうほうざん)で、本尊は聖観音
    西明寺百済寺とともに湖東三山のひとつであるこのお寺は、天平13年(741)に聖武天皇の勅願で行基菩薩によって開山されたと伝えられる。本尊は行基自らが彫ったものだそうな。その後、嘉承年間(850年)には延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)がこの寺に来て、延暦寺の末寺として中興したと言われている。
    鎌倉時代には僧坊が百近くある相当な大伽藍だったようだが、天正元年(1573年)、織田信長の焼き討ちに遭い、現存の本堂、三重塔以外は灰になってしまう。
    江戸時代に入ってから、徳川家光より30石を寄進賜り、僧坊が12坊ある伽藍に再び再興する。明治の廃仏毀釈で規模を縮小させられるも、観音様を崇敬する人たちによって、修復がなされて、今に至る。


    黒門。


    西谷堂。阿弥陀如来が祀られていたと思う。


    明壽院。庭園には入っていない。


    地蔵堂。平成9年5月3日に完成。


    地蔵堂の隣にある護摩堂。平成18年10月に完成したのだと。


    参道。結構坂がきつく、距離もある。西明寺といい、湖東三山の寺はやたら歩かせるなぁ。


    写真が残念だが、二天門。でっけぇわらじが左右ぶら下がっている。重要文化財だど。


    鐘楼。


    三重塔は桧皮葺の葺き替え工事でかくのごとき状態。かつては三重目がないほどの荒廃ぶりだったそうだが、昭和53年に復元、補修工事がなされた。
    とりあえず、他のところから三重塔の画像を引っ張ってきた。

    photo by kasesansui


    稲荷社。

  • 百済寺:神仏霊場巡拝の道・第百四十一番(滋賀九番)札所。「ひゃくさいじ」と読む。「くだらじ」ではない。山号は釈迦山で、本尊は十一面観音である。俺が訪れた湖東三山最後の一つだ。縁起のほうは、オフィシャルサイトのそれをかいつまんで説明する。
    百済寺という名の通り、この辺りには弥生時代の頃から百済の国から渡来した人が住んでいたという。我々日本人は百済を「くだら」と読むが、これは奈良時代になってから。百済の人々は「はくさい」と読んでいたという。だから百済寺と書いて「ひゃくさいじ」と読むのだと。
    やがて時は流れ、聖徳太子高句麗の僧・恵慈(えじ)とともにこの地に至った時、泊まり先でなにやら光が見えるので、その先に行ったら、幹が上半分がない杉の木があった。慧慈に尋ねたところ、上半分は百済に運ばれて「龍雲寺」の本尊・十一面観音像に彫られたという。
    それを聞いて、いたく感動した聖徳太子は下半分の幹を根がついた状態で十一面観音像を彫ったといわれ、その日が推古天皇14年(606年)10月21日だったと縁起書には記されている。件の龍雲寺は百済滅亡のあおりで廃寺になり、その所在はとうと知れない…。
    とまぁ、ここまでは寺伝の領域。史実によれば、天養元年(1144年)に、比叡山延暦寺天台宗の別院になった


    平安時代には「百済寺三百坊」と言われるほどの伽藍があったそうだが、明応7年(1498年)と文亀3年(1503年)の2度にわたる大火と、さらに織田信長の焼き討ちが追い討ちをかけて荒廃した。
    寛永11年(1634)、徳川家康に仕えた天台宗の大僧正・天海の弟子、亮算が入山してからは復興が進み、領主井伊直孝の援助などにより、現在の本堂は慶安3年(1650年)に建立されたものだ。


    駐車場降りると本坊の門がある。庭園もあるけど、見ていない。


    本坊となりの不動堂。改修工事やっていた。


    参道へ続く西門。


    そしてまたも長い参道。隣には石段でない「なだら阪」もある。


    参道を歩き続けると仁王門が見えてきた。でっけぇ草履がインパクト大ですなぁ。


    仁王門を抜けても、さらに歩かされるのである(笑)。


    ここには弁天堂があったが、2012年4月3日の爆弾低気圧で倒れた木が直撃してかくの如き次第に…。


    手水場。


    三社権現社。看板が読めなかったので調べたらこうだった。俺は「茶所権現」とか読んでもうたし。


    鐘楼。梵鐘は昭和30年に鋳造されたんだって。

  • 永源寺:神仏霊場巡拝の道・第百四十番(滋賀八番)札所。山号大本山で、本尊は世継観世音菩薩という。
    南北朝時代の興安元年(1361)、近江の国の守護大名だった六角氏頼(佐々木氏頼とも)が寂室元光(正燈国師)を招き、創建したのが始まり。
    世継観世音菩薩の縁起だが、寂室元光が中国から返ってくる際に嵐に見舞われたという。その時に助けてもらった観世音菩薩が小さな像になってこの寺に現れたので、早速大きな観音像を造り、体内に納めてご本尊にしたという。
    月日は流れ…六角氏頼の孫である、六角満高にはなかなか子供が出来なかったので、夜毎、観音菩薩に拝んだところ、世継ぎが出来たという。以来「世継観世音菩薩」と呼ばれるようになったそうだ。
    開山当初より、2000人ほど修行僧が集い、56の庵があったり、応仁の乱の頃には、名だたる僧達がこの地で修行したと伝えられるが、戦国時代には烏有に帰して、衰退してしまう。
    江戸時代になり、妙心寺の僧・別峰紹印が再興に動き出し、後水尾天皇も帰依していた一絲文守(いっしぶんしゅ)が入山してからは、後水尾天皇はもちろん、東福門院後水尾天皇中宮で、徳川家康の孫・徳川和子)、彦根藩の寄進を受け再興は無事になされることとなる。


    やけに昭和テイストな土産物屋(しかし、どれも閉まっていた)が立ち並ぶ駐車場を経て、階段がある。左端にちょこっと出ているめがねの石造は十六羅漢のひとつなのだ。


    総門。


    総門をしばらく歩くと、山門。重要文化財だって。期間限定で上層にも上がれるみたいだが、俺が行ったときは扉で閉ざされていた…。


    ただの休憩所。不動明王が納められている。


    鐘楼。


    法堂兼仏殿。


    経蔵。


    開山堂。

  • 日牟禮八幡宮:神仏霊場巡拝の道・第百四十二番(滋賀十番)札所。祀られている祭神は、誉田別尊(ほんたわけのみこと 応神天皇の事)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと 神功皇后のこと)、比賣神(ひめかみ)。

    社殿によると、131に成務天皇武内宿禰に命じて、この地に大嶋大神(地主神)を祀られたのが、始まりだと。
    應神天皇6年(275年)、応神天皇が近江に行幸されたときに、この神社に御座所を設けて休憩をしたという。後に御座所跡地から、日輪の形を2つ見るとの奇端(そこに立ったら、太陽が二つに見えたって事かしら?)があり、祠を建てて「日群之社八幡宮」と名付けられた。持統天皇5年(691年)には、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌(「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)に因んで「比牟禮社」とさらに改められる。

    正暦2年(991年)に、一條天皇の勅願により、法華峰(八幡山)に宇佐八幡宮を勧請して、「上の八幡宮」を祀った。さらに寛弘2年(1005年)には遥拝所を比牟禮社に建て「下の社」と言われ、天皇武家からの崇敬を受けるようになる。
    天正18年(1590年)、豊臣秀次が法華峰に八幡城を築城のため、上の八幡宮と下の社を合祀した。替地として日杉山に祀る予定だったが、文禄4年(1595年)に秀次が自害。このため八幡城は廃され、日杉山に神社も建立されず、現在の一社の姿となった。廃城後の城下町は商人の町として栄え、比牟禮社は鎮守社として栄え、今に至っている。
    日牟禮八幡宮とという名称になったのは、1966年(昭和41年)神社本庁別表神社に加列してから。


    楼門。


    手水場。


    楽殿


    絵馬舎。


    恵比寿社。事代主神金山毘古神を祀る。金山毘古神大正3年(1914年)に合祀された。


    八坂神社。建速須佐之男命と少名彦命を祀る。大正5年(1915年)に粟島神社を合祀した。


    繁元稲荷社。享保2年(1717年)に稲荷山に勧請。天保13年(1842年)、当地が尾張藩領になったとき山祇神(ヤマヅミ・山の神)を合祀し。明治20年(1887年)に当境内に移り、大正2年(1916年)に幾つかの稲荷社を合祀した。


    神輿庫みたい。なんか平成17年にお神輿を修復したとか書いてあるし。


    大島神社大国主命と大鷦鷯命(おおさざきのみこと 仁徳天皇のこと)を祀る。ここが地主社じゃの。徳川時代までは大嶋大明神と称されていた。大正13年1924年)に若宮神社を合祀した。


    岩戸神社。橦賢木之御魂命と天疎向津姫命を祀る。伊勢神宮の遥拝所も兼ねているみたい。


    左は常盤神社、天照大神豊受大神熱田大神・津嶋大神を祀る。天保13年(1842年)に勧請。明治20年(1887年)に繁元稲荷社と共にこの地に移った。
    真ん中は天満宮。慶長6年(1601)勧請。かつては宮内町で祀られていたのを、大正5年(1915年)に移築。宮内天神・庄六天神とも伝え、大正5年慈元天満宮を合祀。
    右は宮比神社。天宇受売命を祀る。安政5年(1858年)より稲荷山に祀ってあったものを、明治8年(1875年)に移築した。古くから百太夫社と天河枝比売を合祀しているのだと。

というわけで、
神仏霊場巡拝の道、滋賀 欣求の道満願しました。
そして、
神仏霊場巡拝の道満願いたしましたー!

神仏霊場始めたのが2009年の3月7日(同時に西国薬師四十九霊場も始めた)。足掛け3年9ヶ月かけて、ようやく満願したのだ!すごいぞ、俺!
しかし、最後の最後で挫かれた…。
ご朱印をゲットし、満願の証を頂こうとしたら…
「うちではやってません。事務局に問い合わせてください」
はぁ?普通は満願したところでやってくれるんじゃないの?と言っても「事務局に問い合わせてください」の一点張り。渋々「じゃぁ、その事務局どこか教えてくれ」
「わかりません」
もぉええわ!とキレかけるが、神前で一悶着起こしたくないので、その場を去る。
車に戻って、神仏霊場のパンフレットを見たら、事務局は東大寺になっていた。早速連絡する。後日申込書をFAXするという。あと、せっかく満願したのに満願の証を発行してくれなかったことに対しても、不快感を現したし。
全く、足並みは揃えて欲しいものである。

薬師霊場満願どゎ!しょの2

しょの1はこちら


  • 西明寺西国薬師四十九霊場・第三十二番札所ならびに神仏霊場巡拝の道・第百三十六番(滋賀四番)札所。山号は龍應山で、本尊は薬師如来
    金剛輪寺百済寺とともに「湖東三山」の1つに数えられているこのお寺は、寺伝によると834(承和元年)に、三修上人がこの寺を建立したという。で、2年後の承和3年(836年)に仁明天皇の勅願を賜り「西明寺」の寺号を賜る。
    鎌倉時代の頃までは17のお堂に300近くの僧坊があった大伽藍だったそうだが、1571(元亀2年)織田信長によって、焼き討ちに遭ってしまう。しかし、幸いにして国宝になる本堂と三重塔は残った。
    しばしの荒廃はあれど、江戸時代以降は徳川家光以降の徳川家や彦根藩主らの庇護を受け、延宝年間(1673〜1681)には、毘沙門堂門跡の大僧正、公海が参詣し、望月越中守友閑に復興を命じたことにより、本格的な復興がなされ、現在に至っている。
    このお寺は、紅葉の名所でもあって、丁度俺が行ったときも紅葉真っ盛り。いつもより余計に写真を撮ってしまったw。しばし堪能するがよい。あと、写真には納めてないが、猿が間近で見られる。


































































    さて、お堂もうpしていくか。


    山門。紅葉シーズンだから、参拝客も多かったわぁ。


    庭園。


    庭園を過ぎてすぐにある龍神社。


    稲荷神社。


    手水場。


    二天門。重要文化財だぞ。


    三重塔。国宝でございます。この寺の画像でググると、猛プッシュでございます。


    三重塔の近くにあったお社。何祀っていたのかは…忘れた。


    鐘楼。

そして、納経所でご朱印をゲットし…
西国薬師四十九霊場満願しましたー!

これがその満願の証。

薬師霊場満願どゎ!しょの1


  • 長浜八幡宮:神仏霊場巡拝の道・第百三十七番(滋賀五番)札所。祀られているのは、三神。足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)こと仲哀天皇誉田別尊(ほんだわけのみこと)こと応神天皇、そして息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)こと神功皇后の、以上三神。
    延久元年(1069年)に後三条天皇の勅により、源義家石清水八幡宮を勧請して創建したと伝わる。以後、武将や天皇の崇敬を受け、度重なる兵火で荒廃するも、天正2年(西暦1574年)に羽柴秀吉公が長浜城主になったときに、復興に尽力して、現在に至る。


    やけに長い参道。


    鳥居。


    手水場。意味なく2枚撮るw。


    摂社・高良神社(こうらじんじゃ)。武内宿禰(たけうちのすくね)を祀る。244年間歴代天皇に仕えたという。


    摂社・都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)。竹生島にありますな。市杵島姫神(いちきしまひめのみこと)つまり弁財天を祀る。


    摂社・天満宮菅原道真を祀る。


    末社地主神社。大地主神(おおとこぬしのかみ)を祀る。


    末社熊野神社。家津御子命(けつみこのみこ)、熊野速玉命(くまのはやたまのみこと)、熊野夫須美命(くまのふすみのみこと)の三神を祀る。


    オフィシャルサイトに載ってないお社。何を祀っているのだろう…。


    末社・末広稲荷神社(すえひろいなりじんじゃ)。宇迦之御魂(うかのみたまのかみ)、佐田彦神(さだひこのかみ)、大宮能売神(おおみやのめのかみ)を祀る。


    摂社・金刀比羅宮 河濯神社(ことひらぐう かわそぎじんじゃ)。河濯神社には瀬織津姫命(せおりつひめのみこと) を祀り、金刀比羅宮には大物主命(おおものぬしのみこと)と大黒天を祀る。

長くなりそうなので、しょの2へ続く

滋賀はまだまだある。

  • 御上神社:神仏霊場巡拝の道・第百四十四番(滋賀十二番)札所。主祭神は、天之御影命 (あめのみかげのみこと)。天津彦根命(あまつひこねのみこと)の子で、天照大神の孫である。
    社伝によると、考霊天皇6年(紀元前285年)6月18日に天之御影命が三上山に降臨したという。その後、このあたりを統治していた安国造(やすのくにのみやつこ)の一族である、御上祝(みかみのはふり)がこの山を神体として祀ったのが始まりと言われる。
    その後、養老2年(718年)3月15日に藤原不比等が勅命により、現在の地(当時は遥拝所だった)に社殿を造営した。現在の社殿は、鎌倉時代後期、14世紀始めごろ整備された。


    ちょうど、俺が行ったときには、「ずいき祭」というお祭りが行われていた。永禄4年(1561年)から450年以上続く国の重要無形民俗文化財で、サトイモの茎で作ったお神輿を奉納していた。この日の夜にも芝原式という祭事が行われて、子供が相撲を取るという。

    さて、他のお社を見て回るか。


    鳥居。


    神武天皇遥拝所。


    楼門。


    楼門隣の末社。右が愛宕神社。火産霊命(ほむすびのみこと)を祀る。左が御鍵取神社。みかぎとり?と読むのだろうか。天津彦根命猿田彦命を祀る。


    鎮魂殿なる建物。


    本殿右手にあるお社。右が三宮神社瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祀る。天照大神の孫で、神武天皇の祖父である。左が大神宮社。天照大神を祀る。


    本殿左手にある若宮神社伊弉諾尊菅原道真公、天石戸別命、天御鉾命(あめのみほこのみこと。七夕の織姫のモデルとのこと)、野槌之命(のづちのみこと。カヤノヒメの別名)を祀る。


    神輿庫。鳳輦神輿(ほうれんみこし)と呼ばれて、高貴な方を乗せる目的もあったという。宝徳2年に作られたという。西暦1450年か、なるほど、古いな!なんだ、このざっくりした感想!


    御上神社の北側にある三上山。ご神体であるこの山は近江富士とも呼ばれている。マツタケが取れるそうで、最近、入山料を取るようになったようだ。


  • 善水寺西国薬師四十九霊場・第四十七番札所。山号は岩根山。本尊は薬師如来
    寺伝によると、奈良時代和銅年間(708〜715年)に元明天皇の勅命により、国家鎮護の道場として建立され、和銅寺と称していた。延暦年間に最澄がこの山で雨乞いを祈願したら、たちまち雨が降り、その洪水で延暦寺を立てる材木を流したという伝承がある。
    本堂は国宝。元の本堂は延文5年(1360年)に焼失するが、貞治3〜5年(1364〜1366年)5月に延海が再建した。明治32年に、重要保護建造物に指定され、翌33年には解体修理をうけた後、昭和29年に国宝に指定された。


    山門はない。


    鐘楼。


    元三大師堂。江戸時代、正徳三年(1713)再建。元三大師良源大僧正を祀る。延暦寺を中興した僧である。


    百伝の池。最澄がこの山に登ったときに、この池から薬師如来像が現れたという。桓武天皇が病気の際にこの池の水を飲ませたところ、たちどころに平癒したので、以来、現在の善水寺に改名したという。中央のほこらは百伝弁才天社。


    でまぁ、現在でもここで水が飲めるのだ。


    六所権現社。オフィシャルサイトによると「伊勢、春日、八幡、賀茂、熱田、鹿島、の六所の神々を一所に奉安する。善水寺開創よりの当山鎮守の神である。」とのこと。


    行者堂。元々は廃仏毀釈の煽りを受けて廃寺に追い込まれた、飯道寺岩本院の行者堂を明治9年に本堂東隣に移築、その後、明治12年に修復・移転した。


    法華塔。


    地蔵堂。元々は不動堂があったという。


    観音堂。オフィシャルサイトによると「元禄9年(1696)乗蓮比丘勧進により岩蔵坊旧跡に堂建立。元東尾本尊、聖観世音菩薩を奉安する。」とのこと。中の観音像は市の重要文化財に指定されている。


    観音堂隣にある巨岩。上のほうに不動尊磨崖仏がある。文亀3年(1503年)に刻まれた。

  • 桑実寺(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:桑実寺参照):西国薬師四十九霊場・第四十六番札所本尊は薬師如来で、山号は繖山(きぬがさやま)。観音正寺と同じ山にこのお寺はある。なので、徒歩でもいけなくもないが、やめた。
    寺伝によると、琵琶湖界隈で病が流行し、天智天皇の四女、阿閉(あべ)皇女も罹患してしまう。ある時、病床で琵琶湖から光が出るという夢を見た皇女の話を聞いた天智天皇が、定恵和尚(藤原鎌足の息子で、談山神社の前身である妙楽寺を創建した僧)に琵琶湖畔で法会を行ったら、琵琶湖に薬師如来が降臨した。
    そして、阿閉皇女や、人々の病気を治して去り、それに感激した天智天皇の勅願により、定恵が白鳳6年(677年)11月8日に創建したと伝えられている。寺名は、定恵が唐から持ち帰った桑の木をこの地にて栽培し、日本で最初に養蚕を始めたことに由来する。山号の繖山(きぬがさやま)も、「繖」という漢字が蚕が口から糸を散らして繭を作ることからきているのだと。
    室町幕府南北朝時代の頃に現在の本堂が建立され(昭和61年に解体修理がなされ、のちに国の重要文化財になった。)、12代将軍足利義晴が、ここに仮の幕府を設置したこともある。その後、戦国時代に織田信長に保護されたりしたし、江戸時代には二院16坊の宿坊が存在していたという。しかしその後荒れて、今のようになる。


    この寺、住宅街の奥まったところにあって、周辺に駐車場がない。数百メートル離れたところに駐車場があったので、歩くしかない。さらに、階段が長く続くのだ。


    出雲神社。


    満願知覚地蔵菩薩と書かれたトタン屋根の小屋…。その近くにあった慈母地蔵像。


    ようやく山門だ。しかし、まだまだ続くぞ。


    山門抜けた後にある、地蔵菩薩像。南北朝時代に作られたもので、明治時代初期にここに移転したという。


    地蔵堂。明和6年(1769年)に建立された。


    しかし、寺まで長ぇな!結構歩いたぞ!


    宝泉坊なる宿坊。他に千光院と正寿院という宿坊もあるが、撮っていない。ちなみに、現在人が住んでいる宿坊は正寿院だけである。


    鐘楼。


    鎮守三社。天和元年(1681年)に建立された。祀られているのは、右からスサノオの妃(表記ママ。櫛稲田姫命か?)、大黒天、スサノオの命。


    経堂。天正4年(1575年)に織田信長によって建立されて、伝教大師を祀ってたという。明治時代に災害で大破するも、大正2年に経堂として再建した。