滋賀

  • 建部大社:神仏霊場巡拝の道・第百四十五番(滋賀十三番)札所。主祭神日本武尊(やまとたけるのみこと)。相殿神天明玉命(三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)を作った神)。権殿神に大己貴命を祀る。

    社伝では、景行天皇46年(116年)、神勅により日本武尊の妃だった布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が、息子の稲依別命(いなよりわけのみこと)と共に、当時住んでいた神崎郡建部郷千草岳(現在の東近江市にある箕作山あたり)に日本武尊を祀ったのが始まりといわれている。その後天武天皇白鳳4年(675年)に現在の地に移った。 ちなみに、元々祀られていた箕作山(みつくりやま)にも、現在は建部神社として地元の鎮守として祀られている。参考リンクはこちら

    あと、1159年の平治の乱で平家に敗れ、伊豆に流されることになった源頼朝が、伊豆への道中、ここで源氏の再興を祈念したと言われている。その後のことは皆さんもご存知の通りですな。ちなみに、1185年に天下を取った後(現在は、鎌倉幕府が開かれたのは1185年と教えているのだと。)、1190年に再びこの社に訪れて、数多くの宝物を奉納したそうです。


    二之鳥居。


    神門と手水場。


    三本杉。「孝徳天皇の御代天平勝宝7年(755年)大己貴命を権殿へと奉祀された際、一夜にして成長したと伝わる御神木の三本杉。」と、オフィシャルサイトで言っているが、ようするに、ご神木だ。


    桧山神社遥拝所。この近くに神社の近くに御旅山てのがあって、そこにある神社の遥拝所を平成七年四月に建てた、と。祀られているのは、伊邪那美命大山祇命息長足姫命、武内宿祢大臣、住吉大神で、さらに元熊野神社、山神社(7ヶ所)、鞭指神社の御祭神を合祀して桧山神社と改称されたのだと。


    大野神社。草野姫命(かやのひめのみこと)を祀る。建部大社がこの地に移る前に建てられてい地主社である。


    武富稲荷神社。稲倉魂命を祀る。


    八柱神社


    絵馬舎と、その下にあった祠。


    宝物殿。拝観は、アポなしでは見られないという。


    箭取(やとり)神社。石占横立、尾張田子之稲置、乳近之稲置を祀る。日本武尊の遠征に付いていった家臣達である。


    弓取神社。弟彦公を祀る。おなじく、日本武尊の遠征に付いていった家臣である。



    摂社・若宮神社日本武尊の息子、建部稲依別命を祀る。この地に移ってから、建部(たけるべ)氏がこの神社を管理するようになり、そこから建部神社の由来になったという。


    摂社・藤宮神社。日本武尊の妃、布多遅比売命(ふたじひめのみこと)を祀る。


    本殿の隣りに作で囲まれた灯篭があった。こう見えて重要文化財だったりする。オフィシャルサイトによれば、文永七年(1270年)に彫られた、滋賀県内では最も古い灯篭である、と。


    日本武尊と、建部大社が紙幣に描かれたことがあった。昭和20年8月からわずか7ヶ月間しか発行されなかった、日本発の千円札。当時の1000円は今の値段で換算すると、約20万円。こんな高額なもん、一般にほとんど流通しなかった。詳細はwikipedia:千円紙幣を参照。



    摂社・聖宮神社。日本武尊の父、景行天皇(けいこうてんのう)を祀る。


    摂社・大政所神社。景行天皇の皇后、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)命を祀る。


    行事神社。吉備臣武彦と大伴連武日を祀る。これまた日本武尊の家臣。


    蔵人頭神社。七掬脛命を祀る。日本武尊の飯を作っていたという。


  • 石山寺西国三十三箇所・第十三番札所。神仏霊場巡拝の道・第百四十六番(滋賀十四番)札所でもあるが、そちらは既にゲット済み。本尊は如意輪観音で、山号は石光山。

    寺伝によると、天平19年(747年)、聖武天皇の勅願により、良弁(ろうべん)僧正が当寺に聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされている。あり?どっかで聞いた事あるような…。六角堂だ。いったいいくつ持ってたんだよ!ってツッコミそうだが、まぁ、伝承なんてそんなもんである。その後、天平宝字5年(761年)造東大寺司の一部造石山院所により伽藍が整備拡張された。

    現在の本堂が出来たのが、永長元年(1096年)。その後、源頼朝の寄進により東大門、多宝塔が建てられ、さらに、慶長7年(1602年)に、淀君の寄進で本堂の更なる整備が進められ、現在の伽藍に整った。

    有名どころでは、紫式部がこの寺で源氏物語の構想を練ったとされていて、本堂には「紫式部の間」てのがある。


    東大門。源頼朝が寄進し、慶長年間に修復された。


    入り口。ここから有料だぞ。んで、手水場。


    那須与市地蔵尊と書かれたお堂。


    本堂へ向かう階段の半ばにあるお社。何を祀っているのかは調べたがわからない。


    観音堂西国三十三箇所の観音像が納められているぞ。


    毘沙門堂


    御影堂。重要文化財だぞ。

    御影堂の向かいにある宝篋印塔。四国八十八箇所のお砂踏みが出来るど。


    蓮如堂。元々は三十八所権現社の拝殿だったが、明治時代に蓮如上人を祀るようになり、蓮如堂となったという。


    で、こちらが三十八所権現社本殿。


    経蔵と鐘楼。


    多宝塔。源頼朝の寄進で建久5 (1194) 年に建立された日本最古のものだという。本堂と並び、国宝ですぞ!


    若宮。天照大神弘文天皇を祀っている。


    心経堂。花山法皇の写経を納めるために平成2年に落慶したという。これより上にもいくつか建物があったが、寺の歴史をあまり関係のない(最近建てられた)建物ばかりだったので、撮らなかった。


    八大竜王社。


    大黒天堂。

  • 岩間寺西国三十三箇所・第十二番札所。「岩間山正法寺」が正式名称。本尊は千手観音。元正天皇の念持仏で、毎夜日没とともに厨子を抜け出て百三十六地獄を駆け巡り、日の出頃には汗びっしょりになって戻ってくるので、汗かき観音さんと呼ばれている。

    歴史等を書く前に、言って置きたい事がある。駐車場降りたら、いかにも電波ゆんゆんな、黄色い看板がところかまわず立てられている。詳細はここでは書かないが(「岩間寺 トラブル」でググッたらすぐわかる。)、現在、檀家と今の住職との間でトラブっていて、裁判沙汰になっている。件の黄色い看板はその檀家とは関係ないそうだが、滋賀の表記が

    かくのごとくなっている時点で「あぁ、こいつは頭おかしい。」と判断したので、スルーした。でも多くの人は、せっかくお参りに来たのに、しかも西国三十三箇所の札所なのに、不快なものを見せ付けられたと感じるだろう。今はただ、解決を待ち、仏に接することだけ考えるとする。長らく更新が滞ったのは、この辺をあまり書きたくなかったからなんだよなぁ…。

    気持ち切り替えて、歴史に移る。養老六年(722年)、泰澄大師が元正天皇の病を法力により治した褒美として建立したことに始まる。養老六年元正天皇の病気平癒祈願を成満した泰澄は、同年、岩間山を訪れた折に、桂の大樹より千手陀羅尼を感得し、その桂の木で等身の千手観音像を刻み、元正天皇の御念持仏をその胎内に納め祀りご本尊とした、と。

    その後、真言宗醍醐派になり、今に至るのだが…それからは…「岩間寺 トラブル」でググろう


    鐘楼。ゴーンと撞いてはいけない。


    白姫龍神社。


    岩間寺には、山門がない。


    伽藍。


    大師堂。開山した泰澄大師と弘法大師を祀っている。


    稲妻龍王


    不動堂。平成5年(1993年)に建て替えられたという。


    五社権現堂。平成6年に建てられた。熊野権現などのいろんな本地仏を祀ってる。


    手水場。



    護法龍王拝殿。鎮守社かしら。九頭龍龍王、白龍龍王、七面弁才天を祀っている。


    八大龍王社。難陀(なんだ)、跋難陀(ばつなんだ)、紗伽羅(しゃから)、和脩吉(わしゅうきつ)、徳叉伽(とくしゃか)、阿那婆達多(あなばだった)、摩那斯(まなし)、優鉢羅(うはつら)を祀る。


    本堂の隣にある、観音堂。三十三箇所の観音が祀ってある。

ぐだぐだに京都満願。

先週で満願になるはずだった、神仏霊場の京都の札所。しかし、最後の最後でご朱印の受付を日曜日にやっていなかった相国寺にひっかかる。土曜日も土曜日で午前中しかやっていない。仕方なく、今日また出直して、ご朱印をゲット。なんともグダグダ。
ともかく、神仏霊場巡拝の道、京都・楽土の道満願!残すは滋賀 欣求(ごんぐ)の道を残すのみ!
このまま滋賀に行こうかと思ったが、気が抜けたので、帰る。帰るついでに穴太寺に寄ろう。先達になってから行ってねぇや。

  • 穴太寺(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:穴太寺参照。):西国三十三箇所・第二十一番札所。山号は菩提山で、本尊は薬師如来だが、札所本尊は聖観音。堂宇は前回撮ったので、そちら参照。んで、加筆修正施した。
    寺伝によると、慶雲2年(705年)、文武天皇の勅願により大伴古麻呂薬師如来を本尊として開創したとされる。その後、平安時代に宇治宮成によって聖観音菩薩像が納められた。「身代わり観音」の伝説として今昔物語や扶桑略記にも書かれているという。
    この地で郡司をしていた宮成は、信心深い妻の勤めで、京都から仏師を呼んで聖観音像を彫ってもらった。そのお礼として仏師に馬を与えたのだが、いかんせん、この宮成、たいそう欲深い男であって、仏像も馬も自分のものにしたく、仏師を矢で射て殺してしまう。なんという極悪っぷり。
    馬も奪い返し、ホクホク顔で家に帰ってみたら、なんと、自分が射た矢が刺さった聖観音像がそこにいた!もちろん仏師は生きていた。それで改心した宮成は夢枕での聖観音のお告げを聞いて、本堂を建てて、聖観音像を納める事に相成った。
    まぁ、その本堂は享保年間に火災で焼け落ち(現在の本堂は享保20年(1735年)に再建された。)、件の身代わり観音も1968年11月に盗難に遭い、未だに見つかっていないのだが…。


    仁王門。


    前述した、宇治宮成の墓がこの寺にはある。


    本堂の中に入るのは有料だぞ。庭園にも入りたいときにはさらに料金が加算されるぞ。ちなみに、庭園は冬季は閉鎖しているぞ。

あとちょっとで、京都満願。

気づいたら、神仏霊場の京都札所もあと6箇所だけになっていた。上京区界隈に固まっているので、まとめてやっちゃいましょう。

  • 御霊神社(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:上御霊神社や、「上御霊神社」で検索):神仏霊場巡拝の道・第百番(京都二十番)札所。
    祀られているのは、以下の通り。
    崇道天皇早良親王光仁天皇の皇子)
    井上大皇后光仁天皇の皇后)
    他戸親王光仁天皇の皇子)
    藤原大夫人(藤原吉子桓武天皇皇子・伊予親王の母)
    橘大夫(橘逸勢
    文大夫(文屋宮田麿

    いずれも、謀反やら暗殺やら疑いをかけられ、地位を剥奪されて亡くなった人(そして、死後に位が復活する。)ばかりだ。さらに、後になって火雷神(以上六柱の荒魂。菅原道真とも言われている。)と、吉備大臣(吉備真備)も祀るようになった。

    桓武天皇の時代に各地で疫病が流行した。これは怨霊の祟りであるとして、霊を神として祀って鎮まってもらおうという考えがあった。これが御霊信仰である。貞観5年(863年)5月20日平安京神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢文屋宮田麿らであった。この御霊会が上下の御霊神社の創祀であるとしている。
    創建時は出雲寺に隣接してて、上出雲寺御霊堂(下御霊神社は、下出雲寺御霊堂ですな)と呼ばれていた。その出雲寺は毘沙門堂として現在に至る。
    御霊会は朝廷が始めたことだから、もちろん天皇から篤い崇敬を受けてた。歴代の天皇はもとより、現在の皇室の方々も訪れたことがあるという。


    鳥居と南門。南門は伏見城の四脚門を移築したものだという。


    境内。室町時代の文正2年(1467年)1月18日、畠山政長の軍と畠山義就(よしなり)の軍がここ(御霊の森)で合戦を行った。御霊合戦とも呼ばれたこの戦いは、応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる。応仁の乱を調べてみたが、とてもすぐに把握できない。


    手水場と絵馬所。


    楼門。


    福寿稲荷神社。


    神明神社伊勢神宮ですな


    厳島神社


    長宮三十社。末社がなんと三十社も並んでいる!左から、春原社・荒神社・稲葉社・今宮社・熊野社・愛宕社・熱田社・多賀社・厳島社・猿田彦社・貴布禰社・丹羽社・梅宮社・八坂社・廣田社・吉田社・日吉社・住吉社・龍田社・広瀬社・大和社・石上社・大神社・大原社・平野社・春日社・松尾社・八幡社・賀茂社・鴨社!扁額メモったわw!


    こちらはいくつかの祠が中で並んでいる。左から、大舞宮・白鬚社・疫除社・淡嶋社・天満宮・多度神社・貴船社


    花御所八幡宮

  • 相国寺:神仏霊場巡拝の道・第九十九番(京都十九番)札所。山号を含めた正式名称は「萬年山 相國承天禅寺(まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)」で、本尊は釈迦如来
    永徳2年(1382年)、室町幕府3代将軍・足利義満が開山した。幼少からの禅の師であった春屋妙葩(しゅんのくみょうは)に開山してもらう予定が断られ、妙葩の師夢窓疎石(むそうそせき)を開山とするなら、自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が義満とともに開山となった。
    火災や戦火で何度も烏有に帰したが、天正12年(1584年)西笑承兌(さいしょうじょうたい)が住職となり、復興を進めた。上の画像の法堂はこの時期に建立されたものである。しかしそれ以外の建物は再び火災で焼失。現在の方丈等は19世紀初めの文化年間の再建である。
    金閣寺(鹿苑寺)銀閣寺(慈照寺)は、この寺の塔頭寺院なのだ。
    ていうか、なんで日曜日はご朱印受付してないんだよ!土曜日も午前中だけて!おかげで出直す羽目になる…満願が遠のいた…。


    右が鐘楼。天響楼(てんきょうろう)なる名称で、平成二十二年夏に建立されたばかりのピッカピカ。左が鎮守社の八幡宮。鐘楼の落慶にあわせてこちらもピッカピカになっている。オフィシャルサイトとぜんっぜん違うほどに。


    法堂の裏にある方丈だが、かくのごとく工事中。普段は拝観できるそうだが、残念。


    方丈の隣にある、庫裡。

  • 大聖寺門跡(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:大聖寺 (京都市)参照。):神仏霊場巡拝の道・第九十八番(京都十八番)札所。山号は岳松山(おかまつざん)で、本尊は釈迦如来。中は非公開である。だから写真もこれだけしかない。玄関で呼び鈴押したら、尼さんが来てご朱印もろた。
    元々は、光厳天皇の妃であり、尼僧として臨済宗を学んでいて無相定円尼が、足利義満によって花の御所に招かれ、そこに建てられた岡松殿に住んでいたのを始まりとする。ちなみに、無相定円は義満の正室・日野業子の叔母でもある。
    永徳2年(1382年)にそこで生涯を終えた後に、義満は岡松殿を大聖寺命名し、無相定円の姪である玉巌悟心を開基にした。
    南北朝の頃から、北朝後円融天皇の皇女が入寺したことで、門跡になっていたのだが、寺サイドが正式に門跡にしているのは、南北朝以後の、後小松天皇の皇女が入寺してからである。
    以後、歴代天皇の皇女が門主を務め、正親町天皇(おうぎまちてんのう)の皇女のが入寺してから、尼門跡第一位の綸旨(りんじ、蔵人が天皇の意を受けて発する文書…要するに天皇の言葉を記した文章だ)を贈られたという。こうして、天応からのお墨付きを受けて、京都で最も権威のある尼寺になったのだ。
    後水尾天皇の皇女が入山していた頃は、天皇自身もこの寺にたびたび訪れて、俳句などを楽しんだと言われている。

    何度かこの寺は移転しているが、現在の場所に落ち着いたのが、1697年(1696年とも)。元は聖護院があった場所だが、火事で今の場所に移転。跡地に建てられたのがこの寺。しかし遡ると、なんとここは花の御所岡松殿跡地でもあった!なんという縁(えにし)だ!

  • 宝鏡寺門跡:神仏霊場巡拝の道・第九十七番(京都十七番)札所。ここも中は非公開だった。なので、画像もこれだけ。山号は西山(せいざん)で、本尊は聖観音菩薩。伊勢の二見浦で漁網にかかったものと伝えられている。
    応安年間(1368〜75)、光厳天皇皇女である華林宮惠厳(かりんのみやえごん)が、御所に祀られていたこの聖観世音菩薩像を建福尼寺に奉納安置して、名前を改め開山したのが始まりである。
    寛永21(1644)年に、後水尾天皇々女久厳理昌禅尼(くごんりしょうぜんに)が入寺されてから、皇室とのゆかりが再び強まり、以後歴代皇女が住持を勤めるようになった。
    現在の伽藍は、寛政10(1798)年に竣工されたもの。書院をはじめ、本堂・大門・阿弥陀堂・玄関・使者の間の六棟が復興された。

    人形寺としても有名である。寺へ入った皇女へ御所から人形が贈られてきたため、歴代皇女の人形を保存している。そのため人形の寺として知られるようになり、一般からも供養として人形が納められるようになった。


    山門。
    えー、画像はこれしかありません。


  • 今宮神社:神仏霊場巡拝の道・第九十六番(京都十六番)札所。祀られている主祭神は、大己貴命事代主命奇稲田姫命
    上御霊神社でも述べたが、疫病や飢饉が起こると、怨霊を鎮めるために御霊会を方々のお社で行っていた。今宮神社になる前のこの場所でもそれは行われていた。正暦5年(994年)6月、一条天皇の御代によって。これが紫野御霊会であり今宮祭の起源になったのだと。
    その後、、長保3年(1001年)5月に現在の場所に神殿が造営されて3柱の神が祀られたのが始まるとされる。
    徳川家光の側室で綱吉の母である桂昌院から篤い崇敬を受け、元禄七年(1694年)には荒廃していた社殿の造営にも関わった。桂昌院は側室になる前は、京都の八百屋の娘「お玉」だったことから、玉の輿という言葉の由来になったとか。


    東門。


    楼門。今のお社は、明治三十五年に再建されたものである。ちなみにこの楼門は大正時代に創建された。


    楼門から見た境内。


    手水場と神馬舎。


    宗像社。田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の三神(宗像三女神とも呼ばれる)を祀る。


    月読社。月読尊(つきよみのみこと)を祀る。


    地主稲荷神社。倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)・猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を祀る。名前の通り、地主神なのだ。


    若宮社。天津彦火瓊瓊杵尊(ニニギ。神武天皇の祖父)、高皇産霊尊(タカムスビ)を祀る。


    紫野稲荷社。隣りには織田稲荷神社がある。織田信長の墓があった場所に建っていたが、昭和62年にここに移った。


    日吉社大山咋神(おおやまくいのかみ)大物主神(おおものぬしのかみ)を祀る。


    大将軍社。素盞嗚尊と同一神とされる牛頭天王(ごずてんのう)と八大王子(八神・素盞鳴尊の五男三女)を祀る。


    八幡社。


    八社。右から大国社・蛭子社・八幡社・熱田社・住吉社・香取社・鏡作社・諏訪社。


    織姫社。栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)を祀る。


    楽殿


    本殿の隣りにある疫神社。素戔嗚尊を祀る。今宮神社が出来る前には、素戔嗚尊を祀るお社があったそうな。


  • 加茂別雷神社:神仏霊場巡拝の道・第百二番(京都二十二番)札所。主祭神賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)。上賀茂神社の正式名称である。
    オフィシャルサイトによれば、神代の昔、本社の北北西にある、秀峰神山(こうやま)[右図]に御降臨になり、天武天皇の御代(678)、現在の社殿の基が造営されたという。
    以来、下鴨神社と並んで天皇や幕府の加護を得て、今に至る。俺が行ったときには丁度特別拝観が行われていて、本殿を間近まで見られたぞ。


    二の鳥居。でかいぞ!


    鳥居を抜けた後の境内。


    土舎。


    細殿。


    細殿の前にある立砂。円錐状に2つ並んでいるのは、御神体である神山を模したものだという。


    手水場。


    末社・橋本神社。衣通姫神(そとおりひめのかみ)を祀る。


    本殿の左隣にある摂社・新宮社。高龗神を祀る。その奥には末社・山尾社。大山津美神(おおやまつみのかみ)を祀る。


    伊勢神宮の遥拝所。


    末社・川尾神社。罔象女神を祀る。上賀茂神社は、式年遷宮を行っていて、あちこち改装工事をしているが、ここはまだみたい。


    楼門。楼門だってば。


    高倉殿。有名人のサインが入った檜皮(ひわだ)が飾られとった。


    末社・棚尾神社。櫛石窓神(くしいしまどのかみ)と豊石窓神(とよいしまどのかみ)を祀る。


    摂社・片山御子神社。玉依比売命を祀る。賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)の母親だ。


    摂社・須波神社。阿須波神(あすはのかみ)、波比祇神(あひぎのかみ)、生井神(いくいのかみ)、福井神(さくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)を祀る。


    岩本社。底筒男神、中筒男神、表筒男神を祀る。


    摂社・賀茂山口神社。沢田社とも。御歳神(みとしのかみ)を祀る。改装中のため、右隣にチョコンと仮のお社があった。


    二葉姫稲荷神社。

    二葉姫稲荷神社の周りにあったお社。左が八嶋龍神社。右が御影龍神社。


    葉姫稲荷神社の周りにあったお社。左が金比羅大権現、右が天之斑駒神社。


    摂社・奈良神社。

他にも境内の外にも摂末社があるが、やめたw。
それにしても、今年だけでどんだけお社回っているんだ?想像もつかん。

気づいたら、京都もだいぶこなせてた。

  • 頂法寺六角堂西国三十三箇所・第十八番札所。山号を含めた正式名称は「紫雲山 頂法寺」だが、オフィシャルサイトを見ての通り、本堂が六角形の形をしているので、六角堂と呼ばれている。本尊は如意輪観音秘仏なんだが、前回行ったときはご開帳(なんと136年ぶりだったという!)していたので見たことがあるぞ。
    歴史をば。この寺は聖徳太子が建立したと伝えられている。反仏教派だった物部守屋を倒し、仏教を広める足がかりとして、四天王寺(ちなみに、日本で一番最初に立てられた仏教寺院である)を建てることにした聖徳太子。その建材を探すべく京にやってきた。
    で、六角堂となる場所の近くの池で沐浴をしてたら、幼少の砌、淡路島で拾い、以来太子がお守りとして持っていた如意輪観音像が急に重たくなった。その夜、夢枕に如意輪観音が現れ、この地にとどまって、衆生の救済をしたいと告げた。
    それを聞いた太子は早速この地に寺を建立することにあいなり、池の近くにあった、毎朝紫の雲がたなびく杉の大木を伐ってそれで六角形のお堂を建て、現在の本尊である如意輪観音像を納めた…という言い伝えがある。


    本堂の外れにある鐘楼。


    山門の向かい。あり?ここ、前駐車場だったよな?まぁ、駐車場は近くにいくつかコインパーキングがあるので問題ないが。


    山門。最近は千社札貼ったらダメなところが多くなったよねぇ。


    門は行ってすぐにあるでっかい柳の木。縁結びのパワースポットだの何だの。ちなみに、枝に猫はいなかったw。


    手水場。


    親鸞堂。親鸞がこの寺で100日間修行して、夢枕で4つの偈文(げもん)を授かり、浄土真宗を開くきっかけになったという。


    祇園社・唐嵜社・天満宮。唐嵜社ってなんだろ?調べたら、前述したように、聖徳太子がこの地に六角堂を建立する際に、紫の雲がたなびく大杉を使ったのだが、それを使うように勧めたのが、老翁に成り代わった地主の神。
    「この地の側にある禿杉という毎朝紫雲たなびく大木を使い、堂をこの地に建立すれば、私が後々まで守ってやろう。」と言い終わると、明神天子菩薩となった。太子は六角堂を建立した後、自ら明神天子菩薩の御神体を作り、堂の東方に一社を設けて、鎮守守護神・唐崎大明神として祀るようになった、と。


    日影稲荷社。


    太子堂。この近くの池が、太子が沐浴したとされる池の跡地である。そのほとりに小野妹子の子孫とされる僧侶の住坊があったので「池坊」と呼ばれるようになった。池坊の僧は、朝夕宝前に花を供えてきて、いつしか生け花の元祖となったわけ。


    石不動。


    石不動の隣にある不動明王像。

  • 行願寺革堂(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:行願寺参照):西国三十三箇所・第十九番札所。神仏霊場巡拝の道・第百十四番(京都三十四番)札所でもあるが、それはゲット済み山号を含めた正式名称は「霊麀山(れいゆうざん)行願寺」だが、革堂と呼ばれている。革堂の本尊である千手観音は、この寺の開基である行円が賀茂神社から槻木(つきのき)をもらって自ら刻んだものである。
    行円は元々猟師で、身重の鹿を射止めてしまったことを後悔し、出家した。そして常に射止めた鹿の革を纏ってたと言われている。それゆえに行円は革聖(かわひじり)とも皮仙とも称されていた。その行円によって、寛弘元年(1004年)、一条小川(現在の上京区革堂町あたり)に建立された。
    それから、豊臣秀吉によって、天正18年(1590年)に寺町荒神口(現・上京区京都御苑東側)に移転。宝永5年(1708年)の大火の後、現在の場所に移り、現在の本堂は文化12年(1815年)に建てられた。


    山門。


    延命地蔵菩薩像と天道大日如来像が納められたお堂。


    手水場。


    寺守社と書かれたお社。何祀っているのかはわからん。


    愛染堂。


    寿老人堂。安土桃山時代に建てられた、この寺では最も古い建造物。都七福神巡りの札所でもある。


    鎮宅霊符神堂。


    庫裡。


    鐘楼。1804年に建てられた。


    地蔵堂2棟。町内会が寄進したみたい。


    百体地蔵尊


    左が弁天社?で、右が加茂大明神。行円が賀茂神社から槻木をもらったお礼に、この石塔を建てたと言う。もう一つの画像は加茂大明神の中に祀られている不動明王

さぁ、どんどん参りましょう。


あ、そだ。ついでに革堂の近くにある、下御霊神社にも参ったのだ。やけに壁やお社がボロッボロの神社だなぁと思ったが、最近、少しづつ改修工事がなされているようだ。あのボロさがいいとか言う人もいるという。冤罪で亡くなった人を祀っているせいだろうか。俺はきちんと整備されているお堂やお社のほうが良いなぁ。カネの匂いがプンプンしない程度に。

  • 賀茂御祖神社:神仏霊場巡拝の道・第百一番(京都二十一番)札所。下鴨神社の正式名称で「かもみおやじんじゃ」と読む。
    玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀る。玉依姫命は、上賀茂神社に祀られている賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の母で、賀茂建角身命は、その玉依姫命の父である。
    創建時期は不明だが、崇神天皇7年(紀元前90年)に神社の瑞垣の修造が行われたとの記録があることから、それ以前からあったらしく、社伝には、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したと伝えている。
    時代に沿って、天皇や朝廷、幕府などからの篤い崇敬を受けていたので、特に荒れることもなく今に至っている。他に書く事ねーもん!
    俺が行ったときには、丁度本殿と後述する大炊殿の特別公開がされていた。本殿は撮影禁止だったが、至近で見られたので、少しはご利益が得られただろうか。

    境内の森林は、「糺の森(ただすのもり)」と呼ばれて、木々が鬱蒼と茂っている。俺が行ったときには、丁度古本市をやっていたのだが、持ち合わせがないのでスルー。


    大鳥居。


    手水場。


    鳥居を抜けてすぐにある、相生社。産霊神(むすびのかみ)を祀る。


    楼門。


    舞殿。その奥で改装工事しているのは、橘殿。


    神服殿。通常非公開だが、予約したら特別拝観が出来るという。


    出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)。比良木社(ひらきしゃ)とも。建速須佐乃男命(たけはやすさのおのみこと)を祀る。


    井上社。御手洗社(みたらししゃ)とも言う。瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)を祀る。この社の下にある池は、水泡とともに湧き出る水の形から、みたらし団子発祥の地と伝えられている。


    中門。


    入ったら、言社と言う7つの末社があった。干支の守り神だと言う。


    二言社。右が大国主神を祀る、子年の守り神。左が大物主神を祀る、丑年と亥年の守り神。


    一言社。左が大国魂神を祀る、巳年と未年の守り神。右が顕国魂神(うつしくにたまのかみ)を祀る、午年の守り神。


    三言社。左が、八千矛神(やちほこのかみ)を祀る、辰年、申年の守り神。中央が、大己貴神(おおなむちのかみ)を祀る、寅年、戌年の守り神。右が、志固男神(しこのおかみ)を祀る、卯年と酉年の守り神。



    拝殿。普段はこれ以上先へはいけないが、俺が行ったときには特別拝観で有料で本殿まで近づけたのじゃ。ただし、撮影禁止だったので、中の画像は、ない。


    大炊殿(おおいどの)とその周辺。ここも特別拝観のときしか入れないが、ここは写真撮影はOK。神聖な領域の外だからいいってことかしら。


    印納社。印璽大神(おしでのおおかみ)と倉稲魂神(くらのいなたまのかみ)を祀る。使い古した印鑑を納めるんだと。


    右が愛宕社で、左が稲荷社。


    なんだ、ここから摂社の三井神社が拝めるじゃないか。他に祀ってあるのは、看板参照。さて、次は南に外れた河合神社を参拝だ。


    河合神社の鳥居と楼門。


    舞殿と、拝殿。河合神社本殿に祀られているのは、玉依姫命下鴨神社主祭神玉依姫命とは同名異神で、こちらは神武天皇のご母堂にあたる。


    本堂となりのお社。右が貴布禰神社高龗神を祀る。左が任部社。八咫烏命を祀る。ここは、サッカー必勝祈願のパワースポットらしく、サッカーボールがよーけお供えされていた。


    六社(むつのやしろ)。右から諏訪社、衢社(みちしゃ)、稲荷社、竈社、印社、由木社。何が祀られているかは、看板参照。


    楼門の向かいにある三井社。右から、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)、玉依媛賣命(たまよりひめのみこと)を祀る。

なんだかんだで、京都の神仏霊場もあと6箇所だけではありませんか!長い道のりだった!
三田に戻った帰りに、花山院に寄る。


  • 花山院西国三十三箇所・番外札所。山号を含めた正式名称は「東光山菩提寺」。本尊は薬師如来である。
    白雉2年(651年)、法道が開基したと伝えられる。天竺から紫雲に乗って飛んできたとか伝説があるが、法道が開基したと伝えられる寺は、兵庫県には結構あったりする。
    西国三十三箇所を中興した、花山法皇が晩年を過ごした寺であるのは有名だろう。wikipedia:菩提寺 (三田市)によると、正暦3年(992年)頃に、西国三十三箇所を巡礼した花山法皇(ちなみに、ご詠歌法皇作である。)が、播磨清水寺に登った際に東方の山上が光り輝くのを見て訪ねて隠棲の地とした。その後晩年に帰京するまでの約14年間を過ごしたとされる。これに因んで元は紫雲山観音寺の名であった当山は東光山と呼ばれるようになったと言う。
    その後、再び入山し、寛弘5年(1008年)に崩御している。


    山門。

    手水場。


    花山法皇廟所。


    宝篋印塔(ほうきょういんとう)。こういうフォルムの石塔をこう呼ぶのだと。


    瑠璃光殿。本尊の薬師如来はこっちだぞ。


    薬師堂と花山法皇殿の間にある祠。池の真ん中にあるから、弁才天竜神祀ってる?

    修行大師像。菩提寺真言宗の寺なのだ。

    なんかお社。何が祀られているのかはわからん。台座が八角形なのは、なんか関係があるのだろうか。


    三寶大荒神


    寺務所入って左手にある鐘楼。


    寺務所内のお堂。中覗いたら、護摩堂かしら。

やっぱり京都は多い。しょの2

しょの1はこちら

  • 妙法院(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:妙法院参照。):神仏霊場巡拝の道・第百十九番(京都三十九番)札所。山号は南叡山で、本尊は普賢菩薩。上の画像は、本堂の普賢堂である。
    最澄が開いたお寺で、もともと、比叡山にあったが、平安時代末期、後白河上皇の時代に京に移転。
    んで、後白河上皇がここで院政を行っていた。さらに、妙法院の近所にある三十三間堂を建立した(厳密には、80年ほどで焼失し、現在の伽藍は後嵯峨天皇が再建したものだが)。
    豊臣秀吉とも関連が深く、秀吉が建立した方広寺の住職を妙法院門主が兼任したり、先祖の菩提を弔うために千人の僧集めて「千僧供養」を行った際にも、庫裏(国宝)で食事を準備したりしたという。


    んで、これがその庫裡(と玄関)。基本的に非公開である。秋に特別拝観があるそうだが。


    山門から見た庫裡。


    本堂へ向かう道。


    宸殿。


    白龍弁才天


    地蔵堂

よし、次は泉湧寺に向かうぞ。

  • 泉湧寺:神仏霊場巡拝の道・第百二十一番(京都四十一番)札所。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来阿弥陀如来弥勒如来の三世仏。
    開基は諸説あるが、オフィシャルサイトによると、平安時代に、弘法大師がこの地に庵を結んだことに始まる。最初は法輪寺で、後に仙遊寺となる。
    一時は荒廃するも、建保6年(1218)に、宇都宮信房当寺が月輪大師・俊芿(がちりんだいし・しゅんじょう)に寄進を受け、伽藍を構築した。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺(せんにゅうじ)と改めた。
    後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓が泉涌寺内に築かれた頃から、天皇家ともつながりを深めていき、歴代天皇の位牌や御影のほかに、後水尾天皇から孝明天皇までの江戸時代の歴代天皇がこの寺で火葬され、「月輪陵(つきのわのみさぎ)」に墓が建てられている。
    それゆえに「御寺(みてら)」と尊称され、明治から戦前の頃は、宮内省がこの寺を管理していた。その頃は、一般公開とかしていたのだろうか。


    山門だね。山門だよ。


    楊貴妃観音堂。納められている聖観音像は楊貴妃の冥福を祈って、夫である玄宗皇帝が造顕された像という言い伝えがある。


    仏殿へ向かう坂。


    舎利殿。舎利とは釈迦の遺骨。ここに納められている遺骨は釈迦の歯で、特に崇められるものだという。


    御座所。ここでご朱印をゲットできる。内部の拝観は有料だったので見ていない。



photo by 663highland

  • 雲龍院西国薬師四十九霊場・第四十番札所。撮った写真がよさげなのがなかったので、wikipediaより拝借。山号は瑠璃山で、本尊は薬師如来。泉湧寺の別格本山だという。塔頭寺院よりは位が上なんだって。
    南北朝時代の応安5年(1372年)、北朝後光厳天皇の勅願により、竹巌聖皐を開山として創建された。その後、同所に後円融天皇が、康応元年(1389年)龍華殿を建立。以来、戦乱などで何度も危機にあいつつも、その都度天皇行幸を受けることになる。
    本格的な中興がなされたのは江戸時代初期。如周宗師が後円融天皇と縁のある龍華院を合併したことが、後水尾天皇の耳に入り、寛永19年(1642年)この地で写経を行って以後、より関係が深まり寺院の再建に繋がった。


    入り口。


    正門。不明門とも言う。



    境内。


    鎮守社。


    俺が撮った龍華殿。正面から撮れる場所がなかったんだよ!


    霊明殿。明治元年(1868年)に再建された位牌堂。江戸時代の歴代天皇や皇女などの位牌が置かれとる。


    なにげに撮った菊の紋章をあしらった灯篭。徳川慶喜が寄進したもので、幕末に薩摩藩が廃棄したものを、この院のご住職が夜中にここに置いたとの逸話があるのだ。


  • 今熊野観音寺西国三十三箇所・第十五番札所。神仏霊場巡拝の道・第百二十二番(京都四十二番)札所でもあるが、既にゲット済み山号は新那智山で、本尊は十一面観音。弘法大師が彫ったとされる。
    寺伝によると、大同2年(807年)、唐から帰ってきた翌年、東寺で真言密教を教えてた空海が、熊野権現のお告げを聞き(山号が新那智山である由来ですな。)、この地に庵を結んだことが始まりとされる。
    それから弘仁3年(812年)に、嵯峨天皇から官財を賜わり、お堂を建てた。さらに左大臣藤原緒嗣(おつぐ)と、その息子藤原春津(はるつ)に受け継がれ、斉衡2年(855)に大伽藍が完成した、と。
    まぁ、戦乱やらでそれらはすべて烏有に帰してしまったのだが…現在この伽藍で一番古いのは本堂で、正徳2年(1712年)には、宗恕祖元律師によって建立されたものである。


    子御大師像。


    熊野権現社。弘法大師熊野権現によって、この地に導かれた伝承は前述したが、本格的に祀られるようになったのは、永暦元年(1160年)。後白河上皇山麓新熊野神社を建てた時に、この寺の本尊をその本地仏としたことから。その際に「新那智山」の山号も賜る。


    鐘楼。鐘は戦時中の金属供出に差し出されたが、そのまま戻ってきたと言う。


    稲荷社。この寺の鎮守社である。弘法大師と稲荷のつながりは深いとオフィシャルサイト。
    ある日、稲を担いだおじいさんが東寺の門の前にいるのを見かけた大師が、話しかけると実はお稲荷さんの化身だったという伝説がある。以来、東寺の鎮守としてお稲荷さんが祀られるようになったと。ちなみに、お稲荷さんの正式名称は宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)って言うんだが、稲を担いで荷物にしてたことから「稲荷」という別名が付くようになったのだ。
    史実はと言えば、東寺の五重塔建立の際に、伏見稲荷神社のある稲荷山の木を用いたことがきっかけである。真言宗の寺には大抵稲荷神社が祀られている理由がわかった気がした。


    もちろん、大師堂はある。


    オフィシャルにも何にもかかれてないが、亀(玄武?)が中国っぽくてキッチュな感じの石碑。

やっぱり京都は多い。しょの1

  • 三室戸寺:神仏霊場巡拝の道・第百二十四番(京都四十四番)札所ならびに、西国三十三箇所・第十番札所。山号は明星山で本尊は千手観音。
    寺伝によると、宝亀元年(西暦770年)のこと、光仁天皇の勅により、行表禅師が創建したという。夜な夜な宮中に金色の霊光がさし込むのを見た光仁天皇が、右少弁・藤原犬養に霊光の源を探せと勅を命じた。
    犬養は宇治川の支流の志津川の渓流に沿って登って行くと、滝壺の中に二丈余りの千手観世音菩薩を見た。犬養は、無我夢中で飛び込んだら、一尺二寸の二臂の尊像と化した。
    犬養はその像を都に持ち帰って、その後、光仁天皇は行表禅師を招き、この像を本尊として安置して御室戸寺と称するよう勅されたのである。
    さらにその後、桓武天皇が自ら彫った千手観世音菩薩像の胎内に本尊を納め、本堂を建立するなど、以降歴代の天皇からの崇敬を受けて大伽藍を築くことになる。
    しかし、寛正3年(1462年)12月13日の大火で大半が焦土と化す。それからも織田信長によって焼き討ちされたりなど、何度も荒廃したが、ようやく現在の伽藍になったのが江戸時代後期の文化11年(1814年)。法如和尚の力によって現在の本堂に再建された。


    受付前。ここから有料でのす。


    受付の正面にある、新羅大明神。貞観年間(859年-877年)に智証大師が本堂の横に園城寺新羅善神堂を勧請して建ててたのを、昭和30年にここに移転した。祀られている新羅大明神は五十猛命(素盞嗚尊と稲田姫尊の子)のことである。


    山門。


    庭園。手前がアジサイで、奥がツツジだ。宇治だからと言って、茶畑ではない。


    道中にあった小さな祠。薬師如来が収めてある。


    ここを登れば、本堂だ。ようおまいり。


    階段登ってすぐのところにある宇賀神像。出来て間もないか?頭は老人で体は蛇という、わけわからん形態だが、ちゃんとした言い伝えがあるんだ。詳しくはオフィシャルサイト見て。あらすじは、蟹を助けた娘があるとき、蛇に婚約を迫られて、三室戸の観音様にお祈りしたら、蟹が蛇をやっつけた。蛇を供養するために娘はこの像を奉ったという伝説。


    手水場。


    この時期は、ハスの季節。本堂の前はハスがよーけ植えてある。若干季節はずれてるけどハスの花も撮りますた。


    本堂右隣の阿弥陀堂親鸞の父、日野有範の供養のために建てられた。


    鐘楼。これも含めて、ここの堂宇は江戸時代に造られたものばかりである。


    三重塔。wikipedia:三室戸寺によると、もともとは兵庫県作用町の高蔵寺にあったのを、明治43年に移設したもの。その後、昭和52年に現在の位置になった。高蔵寺の三重塔跡地はこちら参照。


    霊宝殿。有料だったので見ていない。


    十八神社。室町時代に建てられた、ここの堂宇では唯一の重要文化財三室戸寺が出来る前、この地には三輪明神を祀った三室神社があったという。で、三室戸寺が作られる際に、この神社を鎮守社にして、さらに十五神を合祀して十八神社になったと。参考リンク


    十八神社隣の末社。扁額がなかったが、調べたところ、神明神社だと言う。天照大神を祀ってるんですな。


    その隣りの末社。右が稲荷大明神で、左が児守社。


  • 毘沙門堂:神仏霊場巡拝の道・第百二十七番(京都四十七番)札所…とまぁ、現在本堂が改修工事をしているため、改修前の画像を以下にあげておきます。creative commonsライセンスだぞ。


    Photo by libera-softvaro

    山号は護法山で、本尊は毘沙門天伝教大師作で、秘仏になっている。
    寺伝によれば、文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)行基が開いた護法山出雲寺が始まりだという。その後戦乱などで何度も荒廃するが、徳川家康のブレーンであった僧、天海とその弟子の公海によって山科安朱の地に移転し、寛文5年(1665年)に本堂が完成した。その後、後西天皇皇子の公弁法親王が入寺し、門跡寺院毘沙門堂門跡」と称されるようになった。


    仁王門もこりゃまた改修工事であった。creative commons下の画像でよさげなのが見つからないので、各自ググるように(笑)。そして、紅葉に驚愕するがよい。ここは隠れた紅葉スポットでもあったのじゃ。


    手水場。工事中で水は出ない。


    一切経蔵。


    稲荷社?


    高台弁才天。オフィシャルサイトによると、元々は大阪城内で祀られていたと言う。


    鐘楼。木で思いっきり隠れとる。


    山王社。稲荷明神と山王権現と御霊神社を祀っている。


    左が霊殿、右が宸殿。霊殿から先は有料だったので見ていない。動く襖絵や天井龍などギミックのある絵画が多数展示されているとオフィシャルサイト。紅葉の季節にもう一回いってみようかな?

  • 元慶寺(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:元慶寺参照。):西国三十三箇所・番外札所。山号華頂山で、本尊は薬師如来
    藤原高子の発願により元慶元年(877年)に建立。桓武天皇の孫で、仁明天皇崩御により出家した僧正、遍昭を開基とする。ちなみに、遍昭百人一首

    天つ風雲の通い路吹きとじよをとめの姿しばしとどめむ

    を詠んだ方でもあるぞ。

    西国三十三箇所を中興した花山法皇がこの寺で出家した寺で有名だが、ちょっとした裏話もある。
    永観2年(984年)に17歳で即位した花山天皇(出家後、花山法皇になる。)は、藤原義懐(よしちか)と藤原惟成(これしげ)を中心に政策を行っていた。しかし、寵愛した女御藤原忯子(ていこ)がなくなったことから出家を考えるようになる。
    それを知った藤原兼家が、外孫の懐仁親王(後の一条天皇)を即位させたいがために、次男・藤原道兼に自らも出家するから、天皇にも出家するようにそそのかせと命じた。
    道兼とともに出家を決意した花山天皇は、寛和2年(986年)6月23日丑の刻に、内裏を出て元慶寺に入る。その直後に道兼は姿をくらます。
    「だまされた!?」
    花山天皇が気づくも時は遅し。藤原兼家によって、天皇の証である三種の神器が、花山天皇のいた所から、懐仁親王の元に持ち出されていた…出家しか道がなくなってしまったのである。時に19歳、在位わずか2年の夏の日であった…。

    後に寛和の変(かんなのへん)と呼ばれる政変である。政策におけるブレーンであった義懐と惟成も、後を追って出家する。
    兼家はというと、即位した一条天皇はまだ7歳の幼子。摂政を仰せ遣われて以降、豊臣秀吉が関白になるまで、藤原家が摂関政治を牛耳るターニングポイントになった。道兼は兄のせいでなかなか関白になれなかったが、兄が次々死んでようやく関白になったと思ったら、7日後に病死してしまう。


    山門。画像検索したら、大抵このアングルよね。てか、ブロック塀ジャマ。あと、ここには梵天と帝釈天像が本来あるのだが、京都国立博物館に寄託されている。

長いな!しょの2に続く

鞍馬だ。

鞍馬方面へ行くことにした。いつものように亀岡周りで京都に向かうと…京都縦貫道が通行止めぇ!?なんでも、ラジオを聴いたら、亀岡や京都市内は激しい豪雨だったという。おかげで国道9号線は大渋滞!カーナビに従い、回り道をする。アスファルトには泥で汚れていて、家具を外に持ち出している家の光景も見られた。床上浸水したのか…?もっとも仰天したのは、どっかのスーパーを通りががった時。地下に繋がる駐車場の入り口が見えたのだが、その入り口が全て水が浸かっていた…どんだけ凄まじい豪雨だったの?それから鴨川付近での洪水状況を見て、納得した…。

なんとか、国道を抜け、鞍馬に向かうが、カーナビは通行止めのマークが出るわ、交通規制しまくってて渋滞してるわで、鞍馬寺に着いたのがお昼過ぎ!3時間ぐらいかかったぞ!


  • 鞍馬寺(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:鞍馬寺参照。):神仏霊場巡拝の道・第百三番(京都二十三番)札所。
    山号鞍馬山で、本尊は尊天。毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体になったもんだと。リーフレット読んでもなんだかよくわかんねぇや。
    宝亀元年(770年)に、鑑真の高弟鑑禎(がんてい)がこの山に毘沙門天を安置したのが始まりという。それから延暦15年(796年)に、東寺の建設に携わっていた藤原伊勢人がここに千手観音を安置し、伽藍を建てたのである。長らく天台宗の寺院だったが、戦後間もなく、鞍馬弘教(くらまこうきょう)なる宗教法人として独立。現在に至る。
    鞍馬といえば、天狗伝説だが、この寺の本尊の一つである護法魔王尊の姿が天狗そのものである。


    参道から、山門。山門過ぎてすぐにケーブルカーが走っている(ちなみに宗教法人が運営する鉄道はここだけ。あとは地方自治体や私鉄会社が運営している。)が、歩ける人は歩いたほうがいい。


    ケーブルカーに目もくれず、テケテケ歩く。



    テケテケ歩く道中にあった、鬼一法眼(きいちほうげん)社。鬼一法眼なる陰陽師を祀る。牛若丸に武術を教えたという言い伝えがある。


    由岐神社。天慶3年(940年)、大己貴命少彦名命を祀る。朱雀天皇の勅により、都を鎮護するべく建てられたという。そんときに奉納した、靫(ゆき。矢を入れる筒。ともいうわね。)がこの神社の名前の由来である。


    末社も結構ありましてなぁ。左が素戔嗚尊を祀る冠者者。右が事代主命大山祇命を祀る岩上社。


    左から大杉社、白長弁才天社、三宝荒神社。あ、ちなみに由岐神社でご朱印ゲットできるぞ。


    川上地蔵堂。牛若丸の守り本尊で、彼も毎日拝んでいたんだと。


    中門。元々は仁王門の隣りにあった勅使門だったという。天皇の使いしか通れんかったのじゃ。


    本堂右隣の閼伽井護法善神社(あかいごほうぜんじんじゃ)。
    このあと、奥の院を通って貴船神社に行くつもりだったが、件の雨で奥の院への道が通行止めになったという!やむなく、麓へ下り、車で貴船神社に向かうのであった。


  • 貴船神社: 神仏霊場巡拝の道・第百四番(京都二十四番)札所。高龗神を祀る、貴船神社の総本社である。
    いつごろ創建されたのかは不明だが、神武天皇の母である玉依姫命(たまよりひめのみこと)が、黄色い船(黄色い船→黄船→貴船…ばんざーいw!)に乗って難波津から淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、現在の奥宮に祠を建て水神を祭ったのが始まりと伝えられている。
    最近までお社の改修工事がされてたので、お社はどれもピッカピカ!川沿いにある神社だから、川風も相まってさらに気持ちいい。ただし、川は大洪水だったが(爆)。当然、貴船神社名物の川床なんか出来るわけもなく。摂末社も回るか。


    奥宮と奥宮の鳥居。2012年6月に遷座を終えたばっかりでピッカピカ。元はここが本宮だったと言う。またここには龍穴があって、誰も見てはならないと言われている。


    奥宮の鳥居と神門。


    楽殿


    日吉社。大物主命を祀る。


    吸葛社(すいかずらしゃ)。味鉏高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を祀る。大国主命の子供で、農業の神であり、気性が激しかったことから雷神でもある。


    鈴市社。媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祀る。事代主神の娘で、のちに神武天皇の皇后になる。


    相生の大杉。樹齢1000年とも言われているんだぞ。


    相生の大杉の根元にある末社。左が林田社。少名彦命を祀る。右が私市社(きさいちしゃ)。大国主命を祀る。貴船神社荒神でもあるのじゃ。


    中宮の結社(ゆいのやしろ)。磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀る。神武天皇の曽祖父である瓊々杵命(ににぎのみこと)が大山祇神の娘である木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を娶るときに、姉の磐長姫命も一緒に娶らんか?といわれて断られた(考えたらあたりまえだ!)経緯を持つ。磐長姫命はそれを恥じて以後ここで縁結びの神として鎮座するという、なんとも発想が飛躍した伝説を持つ。2012年4月29日に遷座したばっかりでピッカピカ。


    本宮への鳥居。


    白鬚社。猿田彦命を祀る。


    参道と、神門。


    手水場


    拝殿前に流れているご神水。ここの水をさらすと運勢が出てくるおみくじがあるのじゃ


    祖霊社。


    牛一社(ぎゅういちしゃ)。木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る。古伝では牛鬼だったという。貴船明神が丑年、丑の月、丑の日、丑の刻に降臨した時にお供についていたという。


    川尾社。罔象女神(みずはのめのかみ)を祀る。イザナミの尿からワクムスビと共に生まれた神。


    鈴鹿社。大比古命を祀る。皇大神宮でもあった。

今日もよく参ったのであった。