奈良南部あたりを。


  • 如意輪寺:近畿三十六不動尊霊場・第三十番札所。山号を含めた正式名称は「塔尾山椿花院(とおのざんちんかいん)如意輪寺」で、本尊は如意輪観音である。上の画像が、本尊が納められた本堂で、下が札所本尊である不動明王が納められた難切不動尊堂だ。
    延喜年間(901-923年)日蔵道賢上人が開基した寺で、南北朝時代には後醍醐天皇勅願寺にしていた。また、楠木正行四条畷の戦いに挑む前にこの寺にお参りし、本堂の扉に鏃で
    「かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」
    と、辞世の句を刻んだのも有名な話だ。その扉は、宝物殿に納められているそうだが、有料だったので見ていない(おいおい)。


    山門。


    鐘楼。勝手には撞けない。


    後醍醐天皇御陵。塔尾陵とも呼ばれる。いまわの際に
    身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」
    と詠った。朝廷が南北に分かれ、京の都を追われ、その身は吉野の地で朽ちようとしているが、それでも京都を取り返したかったのである。その想いを与して、天皇家の御陵は普通は南向きなのだが(そいつは初耳だ!)、この塔尾陵だけは北向きに建てられている。

  • 金剛寺西国薬師四十九霊場・第九番札所。山号を含めた正式名称は「小松山福壽院金剛寺」で、本尊は薬師如来平重盛が創建した寺と伝えられている。江戸時代には野原城主の畠山義春公の菩提寺として栄えただの、唐招提寺の長老が隠居した寺だのパンフレットに書かれている。
    また、ここは関西花の寺の札所でもあり、俺が行ったときは丁度境内にはツツジが、裏の庭園には牡丹が咲きほころんでおった。これまたちなみに、この寺の薬師如来は「菊薬師」とも呼ばれていて、無病息災を願って秋には菊が献上されるそうな。春秋両方楽しめる寺ってわけね。でもそれは俺がジジィになってからの楽しみにしよう(笑)。今の優先順位はご朱印だし。


    山門。奥には藤棚があるぞ。


    庫裏。なせかここだけ茅葺き屋根。ここでご朱印をもらった際に、この寺の近くにある栄山寺には、国宝があるよと聞かされた。


    観音堂

  • 橿原神宮:神仏霊場巡拝の道・第三十三番(奈良二十番)札所。初代天皇である神武天皇を祀っている。境内はとても広く、社殿も大きい。しかし、摂末社の類が建っていないので、非常にすっきりしている。
    画像の建物は外拝殿と呼ばれ、普段はここでお参りする。建国記念日に行われる紀元祭にはさらに奥の内拝殿まで入ることができる。


    鳥居。


    手水場。


    神門。

  • 久米寺(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:久米寺ここを参照):西国薬師四十九霊場・第七番札所。山号含めた正式名称は「霊禅山 東塔院 久米寺」。修行の末に空を飛ぶほどの神通力を持ったけど、娘の脛に見とれて神通力を失い、空から落っこちた久米仙人が創建したとも(その後、神通力を取り戻し、東大寺建立の際には、神通力で巨大な建築資材を運んだという伝説もある。)、聖徳太子の弟である来目皇子(くめのおうじ)が建てたとも言われているが、その開基は不明。もとは大和朝廷時代に、軍事面で朝廷に仕えていた(部民(べみん)という)久米部家の氏寺というのが有力だと。


    山門。隣の石碑から、ここが仁和寺の別院であることを知る。


    大師堂。山門近くに「真言最初 久米寺」と刻まれた石碑があったのだが、調べたら、若い頃の空海真言宗の経典の一つである大日経を、この寺の東塔(現在は礎石しか残っていない。)で発見し、唐から帰ってきた後にこの寺で、大日経を説いたと言われている。


    大師堂の向かいにある、金刀比羅宮


    多宝塔。仁和寺に建てられていたのを万治2年(1659年)に移転したと伝えられている。元は東塔跡に建てられていたが、昭和62年の修復の際に現在の場所に移った。(参考サイト→ここ


    納骨堂。地蔵菩薩が納められている。


    観音堂。何観音かはわからん。扁額にも「観音」としか書かれとらんし。


    扁額に「阿彌陀」と書かれているところから、阿弥陀堂だろうか。他の堂宇に比べてピッカピカだから、平成に入ってから建てられたのだろう。


    鐘楼。