紀三井寺と粉河寺

西国も残すところ7箇所になった。久しぶりに和歌山へ行って見ることにした。
…げ!デジカメ忘れた…。なので、スマフォで撮影することと相成った…ちなみに、機種変更するので、これが最後のお勤めに…ならないかw。

  • 紀三井寺西国三十三箇所・第二番札所。山号も含めた正式名称は「紀三井山金剛宝寺護国院」なんだが、まず一発で覚えられないwので、紀三井寺と呼ばれる。本尊は、十一面観音。
    宝亀元年(770年)に、唐から来た僧・為光上人が開基した寺である。仏法を広めるために全国を行脚していた為光上人がたまたま訪れたこの地で、名草山山頂に一筋の光を見たという。早速に山頂に登ったらば、そこに金色の千手観音像があったというでないの。いたく感銘を受けた上人は草庵を結び、本尊を彫り、胎内にその千手観音像を納めたのが始まりといわれている。
    以降、歴代天皇行幸して、後白河法皇勅願寺とにしてからはさらに隆盛を極め、鎌倉時代には僧侶が五百人以上いたそうな。
    江戸時代になってもその崇敬は変わらず、紀州徳川家歴代藩主が頻繁に来山したという。
    紀三井寺の名前の由来は、この地に、清浄水(しょうじょうすい)、楊柳水(ようりゅうすい)、吉祥水(きっしょうすい)の三つの井戸からきているという。俺もさっき知ったw。次回参る時は、その3つの井戸をうpしる。
    堂宇のほうは前回行ったときにあらかた撮ったが、とりこぼしたのをうpする。


    まぁ、山門は撮っとこう。


    んで、参道も撮っておこう。結縁坂(けちえんざか)という。かの紀ノ国屋文左衛門が若い頃によくここにお参りしていて、そこで出会った娘と結ばれたのだと。終戦直後には駐留米軍ジープで駆け上がったとかで話題になったと言う。真偽の程は不明だが。


    西国三十三箇所の観音を祀る六角堂の隣りにある文塚。宛名も差出人もわからなくて、迷子になった葉書を供養している。


    塔頭寺院で撮りこぼしていた、善壽院。元々は紀三井寺真言宗の末寺だったが、現在は独立して救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)の総本山になっている。


    楼門の近くにある、祇園社平安時代に疫病が流行って、牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったら、収まったのだと。

次回は三つの井戸を見ることにしよう。さて、次は粉河寺。

  • 粉河寺西国三十三箇所・第三番札所。山号は風猛山(ふうもうざん)。かざらきさんとも呼ばれる。本尊は千手千眼観音
    宝亀元年(770年)に大伴孔子古(おおとものくじこ)が創めたと言われている。
    当時猟師だった大伴孔子古がこの地に不思議な光を見つけて、ここに庵を結んだ。ある日、一人の童子(童男行者)をこの庵に一泊させて、そのお礼として千手観音像を彫りますと言った。7日かけて像を彫った後いずこへと去っていった。それ以来、孔子古は猟師を辞め、観音信仰に没頭するのである。
    時は流れて、河内の国の長者、佐太夫てのがおって、一人娘が病を患ってしまう。そこにどこからともなく現れた一人の童子(童男行者)が祈祷したところ、娘の病気は平癒する。大層喜んだ長者はお礼にと金銀財宝を差し出すが、それを断り、娘が持っていたさげさや(お箸箱)と袴のみを手に「紀伊国那賀郡粉河に来なさい。」とのみ告げて立ち去った。
    で、長者一家は粉河に足を運んだところ、小さな庵と千手観音像を見つけた。その傍らにあったのが、娘の下げ鞘と袴だった…あの行者が千手観音の化身だったのだ!一家はその場で出家を決心し、粉河寺の整備に生涯を捧げたのである…と寺伝には記されている。
    平安時代には朝廷や貴族からの庇護を得ていて、鎌倉時代には「七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北各々四キロ余の広大な境内地と寺領四万余石を有していた」(公式サイトより)が、天正十三年(1585年)に豊臣秀吉紀州攻めに遭い、すべて焼失してしまう。その後、紀州徳川家の庇護もあり、江戸時代中期から後期に今の伽藍が形成されたのだ。
    ここも、いくつかとりこぼしていた堂宇があるので、それを撮る。


    大門の裏側と参道。参道はやたら蚊柱が立っていたw。


    前回来た時に、太子堂に納めてあった、ガキが描いた聖徳太子の絵が、まだあったw。


    前回来た時は、工事していたのが、完成していた。このさきに円解院と修徳院という塔頭寺院があるが、行ってない。


    中門。風猛山の扁額は紀州徳川家十代藩主、徳川治宝(はるとみ)の筆である。


    地蔵堂


    鐘楼。


    薬師堂。



    薬師堂の奥には十禅律院という塔頭寺院がある。


    寺内と本堂。本堂にある本尊は阿弥陀如来


    護摩堂。子安地蔵、千手観音、不動明王を納めている。


    護摩堂の隣にあったお社。このあと、庫裡に入って、ご朱印をもらい、庭園を案内してもらった。その周りをガイドの孫と思しき子供が騒いだり、ガイドにちょっかいかけたり暴言はいたりしていた。後でガイドは謝っていたが「まぁ、僕もアレぐらいの甥っ子がいますからねぇ。でも、しかるべき場合は叱るべきですよ…。」と言った。数分後、寺内に響き渡るは、おばばの怒号と泣き叫ぶガキンチョの声…そして風の音。


    粉河産土神社も参るとしよう。本殿しか参ってなかったので、摂末社から先に。まず、粉河稲荷神社。


    白山神社


    護国神社


    五社神社。左から楠神社、一言主神社、多賀神社、日吉神社、北野神社となっている。

    経塚。昔はここにお経を埋めていたと言う。


    遥拝所と書かれた岩。方角から考えると、伊勢神宮だろうか。


    んで、ようやく拝殿。


    産土神社の階段を下りて、右手に道がある。進んでみるとあるのが、行者堂。



    本堂の外陣とびんずるさん。

さくさくと参ってきたので、帰りに和歌山ラーメンを食う。

和歌山ラーメンはしょうゆの苦味がきついので、単体で食うのはつらいものがあったが、あれは早寿司とゆで卵と一緒に食うのが前提にしているのだと分かれば、わりとすんなりいける。