ババンババン播州

たまりにたまった画像を上げていく。

  • 瑠璃寺(オフィシャルサイトがないので、wikipedia:瑠璃寺_(佐用町)参照。):新西国三十三箇所・第三十三番札所。山号含めた正式名称は「船越山 南光坊 瑠璃寺」で、本尊は上記画像の本堂にある、千手観音である。


    納経所があるこの建物を本堂と思われそうだが、こちらは本坊。本堂はここから少し離れた川を渡って階段を登った所にあるのだ。


    神亀5年(728年)、聖武天皇勅願寺により行基が開創したと伝えると、看板に書いてある。以降はwikiによると、「南北朝時代に覚祐を開山として赤松則祐により再興された。以来、室町時代を通じ守護大名赤松氏との関係が深かった。」とのこと。


    あと、このお寺が旧南光町(現在は佐用町)だったこともあって、桂南光が毎年この寺で「南光坊南光亭」という独演会を行っている。

    佐用町といえば、数年前の台風被害が記憶に新しいだろう。カメラには収めていないが、御多聞に漏れずこのあたりもその爪あとが今も残っていて、崩落した山や倒木が放置されていた…。


    堂宇から離れたところにある山門。ここからしばらく車を走らせる。寛永15年(1638年)に再建だと。


    本坊前の橋と階段。


    入山料は100円以上。復興のための浄財も募っていた。…200円入れた。


    稲荷社。大正4年(1915年)に船越苅屋神社と三河大森神社が合祀して、ここに奉祀されたと。以来、この寺の鎮守社となっている。


    本堂へ続く階段。


    権現堂とその真下にあった「イボ取りの水」と書かれた池。数滴つければイボが取れるんだと。


    開山堂と鐘楼。なんか、本坊よりも本堂周辺のほうが、侘しく感じるなぁ…。


    奥の院にも行こうと思ったが、時間の都合でパス。


    本坊の裏手にある、護摩堂と聖天堂


さて、どんどん参りましょう。


  • 金剛城寺(ここもオフィシャルサイトがないので、wikipedia:金剛城寺参照。):新西国三十三箇所・第三十番札所。山号は七種山(なぐささん)で、本尊は十一面観世音菩薩。

    推古天皇5年(597年)聖徳太子の命で、高麗の僧・恵灌により、七種山に滋岡寺(しげおかじ)という寺号で創建されたと伝わる。七種山には修行僧の滋岡川人(しげおかせんにん)が住んでおり、干魃の時に七つの種を人々に与え飢餓から救ったという。山の名もこの伝説に由来するのだ。んで、恵灌が寺を建立しようと現地を視察した際、川人より十一面観音を刻んで安置するよう命じられたと伝わる。最初の寺号は、この滋岡川人より名付けられたと言われている。
    その後寺号は金剛城寺となり、江戸時代には作門寺(さくもんじ)と称していたこともあったが、明治初期に現在地に移されて、昭和3年(1928年)に現在の金剛城寺に寺号を戻した。


    駐車場の近くにポツンとある、石碑。周りは田園。参拝者も俺一人。曇天。侘しい…。


    塀の鬼瓦に目が行ったりする。


    山門。結構でかい。さらに中に入ったら、これまた結構堂宇が立ち並んでいたりする。以外やまた以外(失礼)。


    鐘楼と手水場。


    本堂左隣の阿弥陀堂


    弁天堂。


    奥の方にあったお社。名前を忘却していたが、調べたら、田賀神社だった。多賀神社の誤植?


    阿弥陀堂の裏にある鎮守社。扁額の字が読みづらいが、権現を祀っているみたい。


    護摩堂と、そこから見た景色。


    干支守本尊。干支を司る仏像が石碑を囲んでいるのであった。


    びんづるさん。


大分日も傾いてきた。先を急ごう。


  • 酒見寺(これまたここもオフィシャルサイトがないので、wikipedia:酒見寺参照。):新西国三十三箇所・第二十九番札所。山号は泉生山(せんしょうざん)、本尊は十一面観世音菩薩。

    天平17年(745年)、酒見明神(住吉神社)の神託を受けた行基聖武天皇に奏上し、寺号を酒見寺として開創したと伝わる。
    平治の乱(1159年)で全焼するも、二條院の勅により再建。しかし天正年間(1573〜92年)の兵乱でまたしても全焼。その後、江戸時代に入り、姫路城主の池田輝政や本多忠政の援助を受け、寛永年間(1624〜43年)に再興した。さらに江戸幕府3代将軍徳川家光が朱印寺と定め、代々将軍から朱印状を下附されて隆盛するなど、天皇や幕府、藩により厚く保護されてきて、今に至っている。


    楼門。


    参道。


    楼門過ぎてすぐ右手にある地蔵堂


    その左隣にある多宝塔。なんと国の重要文化財だ!建物の構造云々についてはよーわからんが、下が瓦葺で、上が桧皮葺と言うのは見た事がない。あと、改修して間もないのか、軒下のやたら入り組んだ構造のヤツ(斗栱(ときょう)と言うそうだ)が色鮮やかだった。あの辺、名称がいっぱいあって、よくわからない。


    引聲堂(いんぜいどう)。阿弥陀如来を納める。


    観音堂


    鐘楼。この寺、本堂と阿弥陀堂以外の堂宇、柵や鎖が張ってあって、近づけない。


    賽銭箱に、葵の紋章があったりする。ここが幕府の加護受けていたって証拠だってか。